県道平方東京線は間もなく県道野田岩槻線と交差する。平方東京線はここから野田岩槻線を西に進んだ所から左手の方に続いている。この両線交差した地点からそのまま農道のような道を直進すると道は農家の垣に突き当たるが、その前に一筋の砂利道が通じている。この道が古くからの平方川久保筋の旧道である。古老の話によると、現在の野田岩槻線は昭和三十年頃造成された新道で当時まではこの旧道が唯一の往還道であった。そしてこの旧道筋の古利根川にはじめて木橋が架せられたのは昭和のはじめ頃で、それまでは渡し舟で対岸赤沼に往来していたという。『新編武蔵』に載る渡船場二ヵ所のうち「葛飾郡赤沼村に達す」とある渡船場は当所を指したものである。
旧道は昔とあまり変らず屋敷林に囲まれた農家の間を曲折しながら通じているが、まずこの道を古利根川に向かって進もう。道はまもなく曲り角にくるが、その路傍に文政十年(一八二七)と嘉永四年(一八五一)の馬持連による馬頭観音供養塔が立てられている。ここから古利根川の河原はすぐであり、その川中には昭和のはじめに架せられたという木橋の杭が残っている。道はここで行き止まりであるが水のないときには河原ずたいに最近鉄筋に改築された古利根橋に出ることができる。
この県道野田岩槻線通り古利根橋から古利根川を渡ると、その対岸は春日部市赤沼の地であるが、そこから少し行き、県道春日部松伏線と交差する四辻を過ぎると松伏町大川戸の地となる。丁度その道の傍らに欝蒼とした樹木に覆われた屋敷地がある。ここが江戸時代関東郡代伊奈家の家臣であった杉浦家の屋敷地で、もとは家康の命で造成された大川戸陣屋御殿であったところである。
元禄八年(一六九五)の杉浦氏屋敷地の書上絵図によると、当時その構内の総面積は六町一反七畝一五歩(約六二〇アール)、この中の屋敷地には幅二〇間(約三六メートル)と一三間の堀をめぐらし、その内側を藪敷の築山でとりかこんだ堅固な砦(とりで)ようの構えである。現在の杉浦家屋敷はその一部に過ぎないが、その屋敷の横手は、樹木の生い茂る築山となっており、そこに東照宮が勧進されている。この古木が生い茂る東照宮周辺の状景は昔時の杉浦家屋敷地の面影を偲ばせるに十分である。
なおこの杉浦家には徳川家康の陣屋御殿造成に関する直筆の坪割書をはじめ、関東郡代の家臣当時の古文書、家康より拝領の茶器、その他中世の青石塔婆などが保存されている。また杉浦家から県道春日部松伏線を松伏に向かった所に神社がある。ここは建久元年(一一九〇)の草創を伝える大川戸の鎮守八幡神社で、慶安元年(一六四八)社領朱印地高三石を将軍から与えられた由緒ある社である。また大正八年八幡神社に合祀された熊野社は、同じく慶安元年朱印社地高三石を与えられていた神社で、もと宿通りという地に祀られていたが、ここも古い頃の勧請社とみられ、正和五年(一三一六)、建武元年(一三三四)、永享九年(一四三七)など八通ほどの社領寄進状が残されている。なお八幡社境内の大銀杏は県指定の天然記念物である。
このほか利根川河畔に光厳寺という曹洞宗の寺院があるが、ここには正安二年(一三〇〇)銘の帰依仏と刻まれた大型の青石塔婆がある。この板碑の建立者は鎌倉時代後期の帰依僧で著名な一山一寧といわれ、県の考古資料文化財に指定されている。また光厳寺の墓地には寛永年間とみられる数多くの宝篋印塔墓石などもあり、由緒ある寺院であるのを偲ばせている。さらに光厳寺の先に神明神社があるが、『吾妻鏡』寿永二年(一一八三)一月、同建久三年(一一九二)十二月、建暦三年(一二一三)五月の条にその記事がみえる皇太神宮領大河土御厨の本宮はこの神明社ではないかという説もある。この辺りの古利根川の対岸は、越谷市船渡・大松あたりにあたる。