増林と増森は古くは下総国新方庄の内に含まれていたが、のち武蔵国となり江戸時代は武蔵国埼玉郡新方領のうちに含まれていた。このうち増林村は村高が一八五四石余、戸数が二四〇戸という越谷地域では最大の村であった。田畑の比率は六対四で畑方がやや多かったが、とくに古利根河畔の畑地では桃や梅の栽培が盛んであった。支配関係は江戸時代を通じて幕府領、組分けは上組・中組・下組に分けられていたが、定使野(じようつかいの)・宮田・根通・市道・堰場・城(しろ)ノ上(え)・川添・西川・浮沼・永沼・堤外などの小名があった。また当地のうち古利根川の対岸は松伏町赤岩である。
また増森村は村高六五九石余、戸数一三〇戸の標準的な村であったが、田畑の比率は一四対八六でその多くが畑方であった。もとは古利根川が増森の地を天狗の鼻のような形で曲流していたが、大正十三年の古利根川改修の際、吉川町の榎戸を貫通した新川が造成されたので、今は古川を境に吉川町と地続きの形になった。この地の農家は天保年間(一三三〇~四四)頃から農間晒(さらし)業をはじめ、一時は増森の晒業として著名であった。川に囲まれていたという利点があったとみられるが、現在これを家業としている家はない。支配関係は同じく幕府領、小名には外河原・内河原・河原崎という河原にちなんだもの、茨沼・魚沼・深芦といった沼や湿地にちなんだもの、その他条里制の遺名ともいわれる三丁野などの小名がある。
明治二十二年の町村制により増林・花田・東小林・中島と合体し、新たに増林村を構成したが、昭和二十九年越谷町に統合された。現在この地域は増林地区と称されているが、このうち大字増林と増森それに中島の地のほとんどが住宅開発の調整区域となっているため、この地域は今でも古利川沿いにつらなる昔ながらの集落と、水田や畑地が広がる向背地をひかえた農村地帯をなしている。地名のおこりはつまびらかでないが、森や林が多かったことから名付けられたともみられている。