香取神社と逆川堤切割騒動

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 北越谷発野田行東武バスを新方橋で下車、少し戻った所に葛西用水路(逆川)へ入り込んだ一角がある。ここにちょっと目立たないが、瓦葺格子戸造りの神社がみられる。増林前並集落の鎮守香取神社である。境内は整地され鳥居が建てられるようであるが、今のところ境内は広場のような感じである。神殿の傍らは集会所になっている。一見したところ境内には石塔などはないようであるが、境内の奥まった所に文化十二年(一八一五)の普門品供養塔と、倒れたままの自然石の普門品供養塔、それに嘉永四年(一八五一)の寄進になる柱状型の供養塔が置かれている。

 また神殿の裏の銀杏などの木の下にくずれた御神燈の台石などが積まれているが、このなかに「奉納大神宮」「前並若者」などと刻まれた力石が交っている。神殿の隣りに建てられている石の祠堂は、大師像が納められている水神宮社でこの扉の前に扇形の木の掛軸が掲げられている。これには「水神宮御遠忌第十一番」とあり〝くもはれてまたくもかゝるすいじんの みづにすむのものちのよのため〟との歌が記されている。ここは逆川に面した恰好の釣り場で逆川に水が入ると釣り人で賑わう所になっている。

 この辺りは宮の下とも呼ばれた。江戸時代逆川をめぐり、とくに洪水時には上郷下郷の対立がはげしかった場所である。つまり船渡・向畑・大吉などの地は一たん利根川や逆川が洪水になると、水吐けが悪い低地であっただけにそのつど甚大な被害を受けた。このため大吉村などでは増林側の逆川堤防を切り割、逆川の溢れ水を増林側に落とそうとした。これに対し増林側ではこれを阻止しようとしたので、しばしば紛争を起こすことがあった。

 安政六年(一八五九)七月の関東大洪水にも、周囲を古利根川・元荒川・逆川に囲まれた増林方では代官役所から役人の出張を求め、その指図をうけながら水防に努めていた。このうち古利根川の洪水は増林堰の圦樋を全開したうえ洗流堰を切り開いて水を落としたが、このとき元荒川からの洪水が逆川を逆流して古利根川に押しよせてきた。このため逆川の水位は急上昇し忽ち大吉村の水田地に溢れだした。上郷からの押水と逆川の氾濫に危険を感じた大吉村などの農民は、鳶口や鍬などを携えて大吉村堤防に集まりその数は数百人に達した。これをみた増林側では諸方に分散していた水防人足を集めようとしたが、この隙に乗ぜられ田舟に乗った上郷村々の農民数十人によって宮の下の堤防が切り割られた。

 やがて水防人が集まった増林側ではこの切り割り個所へ土俵積み上げなどして水の浸入を防いだが、このときなおも逆川を田舟で下り堤防を切り割ろうとした弥十郎村の農民二人を見つけ、両名を取り押さえて増林村役人宅へかんきんした。こうして増林方では証拠人をつきつけて上郷村の不法に抗議しようとはかったが、このとき松伏村名主石川民部が調停役として増林村を訪れ、上郷村の不法を謝罪するとともに、洪水時におけるはっきりしたの議定をとりむすぶ約束で捕われの両名を引き取っていった。ところがその後上郷村方ではそのときの示談条件を履行しようとしなかったので、激怒した増林方では石川民部をはじめ上郷村々を相手取り奉行所にこれを出訴した。

 その結果は不明ながら、当時は逆川に限らず水をめぐっての上郷下郷の対立は何処でも激しかったようである。現在元荒川と逆川は分離され、そのうえ大吉側の逆川堤防は幾段も高く積み上げられたので溢水の心配は少なくなったが、それでも数年前地盤沈下によって堤防が沈み逆川の水が大吉側に溢れだすという騒ぎがあった。

増林香取神社
増林の逆川