清諒院跡と護郷神社

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 香取神社前から国道旧一六号線を渡り、古利根川堤防上の道を行くのもよいが、はじめ県道平方東京線を中心にしながらも若干の脇道をしながら南下することにしよう。県道を少し行った所から右手に入る細い砂利道がある。国道旧一六号線に平行した古道の一つである。ここを少し行くと左手の畑地のなかに墓地が見えるが、ここはもと清諒院と称された真言宗の寺院跡である。墓地には文政二年(一八一九)の松伏・大吉・増林各村の筆子中によって造塔された僧侶の墓石とともに、寛延四年(一七五一)の三界万霊と刻まれた十九夜念仏供養塔、明和七年(一七七〇)の十三仏を陽刻した供養塔、これにはおかく、おさん、おさき、おいねなど造塔した女人の名がその台石に刻まれている。

 その他文化七年(一八一〇)の月山・坂東・西国などとある順拝百番供養塔、延享四年(一七五一)の大乗妙典六十六部廻国供養塔、元禄十年(一六九七)の「屋嶺頂庵主」と読みとれる青石の石塔などが一列にならべられている。また墓地の奥のトタン屋根囲いの中に寛文元年(一六六一)と安永四年(一七七五)の地蔵像塔、及び頭のとれたものもある六地蔵が納められている。

 この墓地からすぐ先に用水路が通じているが、ここに昭和二十九年建碑による柱状型の増林用水護岸記念の碑が立てられている。またその向かい側の路傍に「左ふどう道、右のだ道」と道しるべが付された嘉永七年(一八五四)の文字庚申塔と元禄十七年(一七〇四)の青面金剛庚申塔が置かれているが、この庚申塔はもと護岸記念碑と同じ場所に屋根囲いで立てられていたものである。

 この先は千間堀となるが、千間堀は後の項に譲って県道に戻ろう。県道を少し行くと道端に一叢れのしゅろや南天の茂みがみられ、この中に文政五年(一八二二)ならびに、台石に笹原組とある同十三年の文字庚申塔、それに年代不詳の小さな青面金剛庚申塔が立てられている。したがってこの辺りは笹原と呼ばれた所であろう。また現在の県道は拡幅舗装されその道に沿って工場などが建てられているので新道のようにも見えるが、増林の集落をつらぬく古くからの幹道であり、それを証明するかのように路傍の所々に庚申塔をみることができる。すなわち農協倉庫手前の農家の生け垣の下にも稲荷の祠とともに天保七年(一八三六)の大きな文字庚申塔がをみることができる。この辺りからまた右手の小路を入って行くと、ここにも県道に立てられていた庚申塔と同じ型の天保七年の文字庚申塔がある。

 現在舗装された新しい農道が県道から水田地を直線に貫通しているので解りずらいが、さきほどの小路は増林の鎮守浅間神社(現護郷(もりさと)神社)に通じる古道である。途中松や杉や欅などの樹木に囲まれた屋敷地の前を通るが、この家は増林の世襲名主で、明治から大正・昭和にかけて県会議員や増林の村長を永く勤めた今井家である。屋敷地の一部はスポレク運動場に開放されたがまだ広大な屋敷地の跡を残している。この今井家は中世来の地付きの旧家で、林泉寺前の今井家の墓所には、江戸時代の供養墓石ながら観応二年(一三五一)と貞和三年(一三四七)の、おそらく今井家始祖とみられる人の没年が刻まれている墓石がある。

 ちなみに増林の旧家榎本家の「記録」によると、榎本家の祖は紀州熊野の武士で元和元年(一六一五)大坂の豊臣方にしたがって徳川方と戦ったが、大坂落城とともに増林に落ちのび名主今井八郎左衛門方に身を寄せた。のち今井氏の娘を娶り現在の地に一家を創設した旨が記されている。

 さて今井家屋敷地の先は新しく造成された舗装農道となるが、これを横断した小道を辿ると、もと浅間神社と称された増林の鎮守護郷神社の前に出る。この護郷神社は下前の香取神社、根通の香取神社、同八幡神社、境地垣根沿いの天神社、同神明社、同水神社、城ノ上の稲荷神社、花田の第六天神社、同浅間神社、中島の稲荷神社などを浅間神社に合祀し大正二年護郷神社と改められたものである。

 神社手前の空地に文政七年(一八二四)の文字庚申塔と、三猿を刻んだ貞享二年(一六八五)の庚申供養塔が無雑作に置かれている。田や畑に囲まれた境内地はどこが境界かわからないがかなり広い。右手は集会所になっている。小道に面した境内の入口に紀元二千六百年(昭和十五年)と刻まれた石柱と最近造立された花崗岩の幟立と鳥居があり、敷石をはさんで安永二年(一七七三)の御神燈と同八年の御手洗石、神殿の前に天保十年(一八三九)の敷石供養塔と昭和三年の石柱が立てられている。またこの右手の境内地の奥に椿の垣があり、その中に寛文元年(一六六一)の「法華千部供養」と刻まれた笠付の石塔が立てられている。

 神社の殿舎は瓦葺の拝殿と銅版葺の奥殿からなっており盛土の小高い丘の上に建てられているが、参拝のための石段がつけられている。この神殿の設けられている丘に続き、その左手は松や杉の木立を背に、つつじなどの庭木が植えられた丘状の地となっており、この中に支那事変と大東亜戦の増林村戦死者の名が刻まれた殉職記念碑や乃木希典題による明治三十九年の忠勇碑、及び戦利品でもあろうか大きな大砲の弾、それに明治三十九年の忠勇碑建立のときの記念碑が立てられている。この記念碑には日露開戦の意義などとともに、応召兵士の忠勇を顕彰するためこの村園を戦勝園と名付けここに忠勇碑を建立した旨が刻まれている。このほか境内のはずれに昭和二十九年から始められた土地改良事業の竣功を記念した昭和五十一年の記念碑などが立てられている。

 この神社の先は広々とした水田地であるが、小路をはさんだ社の前は芦や雑草の茂る空地になっており、その先に墓石が見える。ここはもと富井山福寿院と称した真言宗の寺院跡である。この墓地に入ってみると歴代住職の五輪塔墓石のほか享和二年(一八〇二)の普門品供養塔、天明元年(一七八一)の観音供養塔、文化八年(一八一一)の神体不明な石祠、それに不動明王や弘法大師、観音菩薩の石像が墓石とともにならべられている。また墓地の奥に安永六年(一七七七)の造塔になる宝篋印塔が置かれているが、そこに天正六年(一五七八)在銘の二十一仏板碑が立てかけられている。

増林清諒院跡
路傍の庚申塔
護郷神社
浅間神社忠勇碑の除幕式