増林林泉寺

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 道を再び県道に戻って少し行くと道端に墓地がある。トタン葺の古びた堂舎があって薬師堂と呼ばれているが、この墓地に今井家の始祖とみられる貞和三年(一三四七)の年号銘が刻まれた供養墓石などがある。なお薬師堂の堂舎は外見あまり古い建物にはみえないが、内の造作は手斧の跡などがみられきわめて古い建造物ではないかともみられている。

 この先に開山僧が文正元年(一四六六)の寂年を伝える正林山林泉寺と称す浄土宗(現在単立)の寺院がある。寺伝によると貞和二年(一三四六)白衣の行者がオイヅルに納めた子安観音を当地に祀り何処ともなく立ち去っていったが、地元の人びとは観音の堂舎を建立してこれを納めた。林泉寺ははじめこの観音堂の別当寺であったがその後観音堂を林泉寺の境内に移したという。なお明治六年増林小学校が林泉寺に開校されたが、明治四十四年独立校舎が現在地に建設されるまでは林泉寺の境内地に校舎が置かれていたといわれる。

 さて参道入口には昭和四十六年建立の寺院を示す大きな柱状型の標識塔のほか、「新西国三十一番正観音」と刻まれた巡礼標識塔、それに続いて寛政九年(一七九七)と明和五年(一七六八)の青面金剛庚申塔がならべられている。またコンクリートで舗装された参道入口の左手に、瓦葺の堂舎がある。これは成田の不動堂で、最近の台風で松の大木が倒れ屋根の中程が崩壊してしまっている。このほか参道沿いに枝ぶりのよい松の大木が枝をひろげていたが、その数本が台風で倒されたため切りとられてしまった。この参道の途中に宝暦年間(一七五一~六四)の再建といわれる朱塗りの山門があるが、その手前に、樹木の茂みを背にし生け垣で囲まれた昼なお暗そうな一角がある。このなかに地蔵堂の堂舎が建てられておりその周囲には大きな墓石がならべられているが、これは増林の旧家関根家の墓所である。

 さて宝暦年間の再建といわれる林泉寺山門のわきには天明八年(一七八八)の「新六阿弥陀二番」とある巡礼札所標識塔と、境内敷石ならびに表参道コンクリート奉納とある昭和三十八年の石碑が立てられている。山門をくぐると左手に大悲殿と記された竪額が掲げられた堂舎がある。これが貞和二年(三四六)の開基を伝える観音堂である。例年御開帳は四月十八日であるが、この日門前には幟りが立てられ朝早くから参詣人で賑わうという。この観音堂前に年代不詳ながら「正観音武州第三十一番」と刻まれた角塔があるが、この裏には「御殿境内」と刻まれている。慶長九年(一六〇四)越ヶ谷に越ヶ谷御殿が設けられるまでは、当所に御茶屋御殿が置かれていた。このため広い範囲が城ノ上と呼ばれたが、この地名は千間堀沿いの集落に僅かに残されているものの、おそらく増林の御殿は林泉寺に置かれていたのであろう。

 こうしたことで林泉寺の境内には、徳川家康が馬を繫(つな)いだという駒止(こまどめ)の槇(まき)(市文化財)や、家康が鷹狩の途次当寺に憩い、当所の井戸の清水を飲むのを喜びとしたという趣旨が刻まれた昭和十二年建碑になる「権現井戸之跡」とある碑が立てられている。境内は駒止の槇を中心に手入れのよい庭木がさながら庭園のように配置され、その間に文政二年(一八一九)の念仏講中千百余人の造塔とある南無阿弥陀仏塔や定誉良範上人の頌徳碑、それに地蔵の立像に多数の子供がまつわりすがっている宝暦八年(一七五八)の珍しい石像などが調和よく置かれている。

 またこの境内地の奥まった所に生け垣に囲まれた一角があるが、ここには万治二年(一六五九)と延宝八年の二基の巨大な五輪塔墓石が建てられている。これには大沼景房上杉の麾摩下(きか)とあり由緒ありげな人物とみられるが、何故ここに葬られているかはつまびらかでない。正面の瓦葺本堂は最近建て替えられた建物であるが、それに続く庫裡はかや葺のままであり、駒止の槇や朱塗りの鐘撞堂を前にした眺めは、一幅の画のように優佳な風情をみせる。なお鐘撞堂にかけられた梵鐘は昭和五十年の鋳造になるものである。この鐘撞堂の後ろは墓地になっているがあまり古い墓石はみあたらない。

 この林泉寺の先の一角は観光ぶどう園であるが、ここがもと増林村の名主の一人であった榎本家である。榎本家の「記録」によると榎本家は大坂落城のときの落武者であり、四代斉兵衛の代の明和七年(一七七〇)から今井八郎左衛門退役の跡を継いで増林村の名主を勤め、同時に増林堰枠見守役を兼帯した。六代熊蔵は寛政の初年(一七八九―)から両役の外戸田五介組の野廻り役を兼ね苗字帯刀を許された。野廻り役とは鷹匠(たかじよう)頭支配の捉飼場(鷹場)を管理する役人でありその権限は警察権を行使してことに強大なものがあった。なお野廻り役は将軍家鷹場では鳥見役と呼ばれている。この間鷹場御用で廻村中の鷹匠はしばしば榎本家を訪れていたようで、越ヶ谷宿から増林をつなぐ花田の千間堀に架せられた橋はとくに鷹匠橋と呼ばれた。この榎本家には江戸時代の古文書そのほか埼玉では西洋画檀の草分けといわれる倉田弟次郎の絵画などが保存されている。

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