榎本家の前を通り県道をさらに行くと、その路傍にまた天保三年(一八三二)の大きな文字庚申塔などがみられる。そこから少し行き左手の小路に入ると、その突き当りは開山僧が天文七年(一五三八)の寂年を伝える法恩山勝林寺と称される曹洞宗寺院である。当寺には「創立以来之事」という寛文十二年(一六七二)の記録になる古文書がある。これによると万寿二年(一〇二五)下総国葛飾郡百間郷下河辺山中という里に源勝という僧が一宇の堂を建立し聖観音像を祀ったが、この観音像は恵心僧都の作である。その後嘉禎三年(一二三七)衆人によって荒れた堂舎が修覆され観音霊場として永く信仰をあつめてきたが、天文元年(一五三二)岩槻の渋江氏が合戦中の諸業滅罪のため当寺を再建、法恩山勝林寺と号した。
太田氏によって岩槻城を追われた渋江氏は当寺を再建するとともに須賀小次郎と改名し、当地に住したが、勝林寺の開山僧黙堂は須賀小次郎の縁者であるという旨が記されている。ちなみに増林には須賀姓の家がきわめて多く、豪族として勢威をふるったという須賀若狭などの伝説が残されている。なお冒頭に記された下総国葛飾郡百間郷下河辺山中の里とは何処を指したものか確かではないが、文面から推して当地を指したもののようである。いずれにせよ当寺は由緒ある古刹の一寺に違いはない。
さて「蒼龍窟」と記された竪額が掲げられている勝林寺山門は瓦葺でしっかりした建物である。山門前に「総門一宇建立」とある自然石の碑からみて昭和十年の建立になるものであろう。山門をくぐった右側に享保二十一年(一七三六)の地蔵の座像を戴いた「大乗妙典六十六部日本廻国願成就」と刻まれた供養塔が置かれているが、その他の供養塔は境内の左奥に片付けられている。そこには文政八年(一八二五)の普門品供養塔、明和六年(一七六九)の十三仏供養塔、正徳四年(一七一四)の青面金剛庚申塔、「ふどう道、わたしバ道」と道しるべが付された寛政十年(一七九八)の青面金剛文字庚申塔、文化四年(一八〇七)、文政七年(一八二四)、天保七年(一八三六)の文字庚申塔、享保十六年(一七三一)の大乗妙典一千部供養塔、享和二年(一八〇二)の普門品供養塔などがならべられている。
また右手の生け垣のもとに永平寺第四六世当山第一一世真空妙林禅師の書になるという万延元年(一八六〇)の文字庚申塔とともに、文明三年(一四七一)の十三仏板碑が立てられている。この板碑は完形であり美術的にもすぐれたものとして市の文化財に指定されている。荘大な瓦葺の本堂は最近改造されたものであるが、建物自体は幕末期の建築になるという。境内はよく整地され墓地もブロックで区画され近代的な霊園に改められたが、このなかに正保四年(一六四七)や明暦元年(一六五五)など古い宝篋印塔墓石などもみられる。
さらに境内の左手の空地の中に昭和五十年建立になる越谷観音と称される巨大な観音の立像と、昭和五十一年に造られた大きな香櫨が置かれており越谷名物の一つになりつつある。このほか境内の右手に古い建物とみられる鐘撞堂があるがここにかけられている梵鐘は昭和四十六年の鋳造になるものである。
勝林寺を後にし寺の境内に沿った小路を行くと勝林寺霊園と隣り合わせにかなり規模の大きな昔ながらの墓地がある。ここには元和二年(一六一六)同十年、寛永四年(一六二七)、同六年在銘、その他風化して年代の読みとれない宝篋印塔墓石が数多くみられ古い墓地であることが知れる。ことに元和の年号墓石は越谷でも数少ないものといえる。この墓地前の小道をさらにたどっていくと、銅版葺格子戸造りの古びた堂舎が小高い盛土の上に建てられている。天満宮祠である。
ここには自然石による古峰神社と刻まれた明治三十四年の碑と、明治三十九年の忠勇義烈の碑、それに〝あかるミをくらく過ぬるくやしさよ 雪にほたるの学なくして〟という舎楽翁による歌とともに、袖に涙する人物の座像が刻まれた文久元年(一八六一)の碑が建てられている。おそらく当所は天満宮とあることからも、ここに寺小屋塾が設けられていたとみられるが、舎楽とは寺小屋の師匠であった人とも思われる。
天満宮を後にして再び勝林寺前の狭い参道を県道に出ると、その正面に、比較的幅の広い舗装の市道が水田地に通じている。その途中の左手は増林小学校がある。この学校は明治四十四年に増林林泉寺境内の校舎を移したもので、その後幾度か増築や改築がなされて今日に至っている。
この校庭に、昭和十三年増林村農会と増林信用組合によって建立された二宮尊徳の銅像が今なお残されている。薪を背負い歩きながら本を読む若き日の二宮金次郎の肖像で、昭和の初期多くの学校に建立されたものだが、終戦直後その多くは潰廃された。おそらく越谷の学校でこの二宮金次郎の銅像が残されているのは増林小学校ぐらいであろう。
この学校の北方は水田地であるが、その農道の四辻に安永二年(一七七三)の馬頭観世音供養塔がとり残されたように立てられている。これには「右こしがや道、左ふどうそん道」と道しるべが付されている。また学校の南方農家の傍らにも文久二年(一八六二)の馬頭観世音供養塔が立てられているが、もとこの辺りには、下総国平賀本土寺(現松戸市)末、妙冨山法立寺と称す越谷では唯一の日蓮宗の寺院があった。しかし明治の初年に廃寺となり、今は住宅などが建てられてその跡をさぐる術はない。