増林のうちでもこのあたりの農家の多くはバタリー養鶏を営んでおり、鶏卵の産出高は越谷周辺では指折りといわれる。屋敷地の大部分を鶏舎に宛てている関係もあり欝蒼とした屋敷林こそみられないが昔ながらの農家を中心とした純農村地帯で、農家の散在する集落に通じる小道を行くとめったに人影もみえない静かな地域である。再び道を県道に戻って進むと道は二俣に分かれすぐまた合わさる。このうち細い道が古くからの県道で広い直線道路は改修された新道であるが、狭かった当時の県道の道幅が知れる。
この先から古利根川はまた県道に接して流れるが、左手は古利根川に沿った集落とそれに続く畑地、右手は広々とした水田地となる。その左手の畑地に生け垣で囲まれた小さな墓地がある。古びたトタン葺の堂舎があってそのわきに若干の墓石があるが、あまり古い墓石はみあたらない。しかしかつてここから板碑の破片が多数発見されたが、その破片は今はみあたならい。この墓所の先は増林下組の鎮守香取神社である。入口に文化十四年(一八一七)の石の鳥居があり、敷石の参道を行くと慶応元年(一八六五)の阿迦獅子をはじめ嘉永五年(一八五二)の敷石供養塔、慶応元年と明治十一年の奉納になる御手洗石、明治三十四年官林三畝九歩の払い下げをうけてこれを境内地に組み入れた旨が刻まれている明治三十五年の精誠と題した碑などが立てられている。
拝殿奥殿は銅板葺のしっかりした社殿であるが、境内に立てられている農村センター建築の記念碑によると、この社殿は参道の脇に建てられている農村センターの建物とともに、昭和四十八年の再建になるものとある。境内は銀杏の大木を中心に樹木の茂みが神域らしいたたずまいをみせている。ことに神殿の横手は杉の木立になっており、それが古利根川の堤防に続いている。
香取神社を後にして少し行くとまた畑地の中に墓地が見える。ここはもと宝蔵院と称された真言宗の寺院跡である。墓地の入口に正徳二年(一七一二)の地蔵尊供養塔、享保元年(一七一六)と寛政二年(一七九〇)の青面金剛庚申塔、文化八年(一八一一)の文字庚申塔がならべられている。墓地のなかには寛永十年(一六三三)や同十四年在銘の宝篋印塔墓石などもみられ古い墓地であることが知れる。
このほか不動明王像を納めた祠堂と、弘法大師像を祀った祠堂、それにトタン葺の古びた無住の家屋がある。ここは集会所になっているとみられ、地蔵などの縁日には老婆などによる観音経読誦の鐘や大鼓が聞えることもある。この先から県道はまた狭くなり増森の地となる。