増林川岸跡と増林の桃林

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 県道平方東京線を中心に増林の旧跡を辿ってみたが、古利根川の堤防道ずたいに農村情緒をさぐってみるのもよい。国道旧一六号線から県道に入り、左手の小道を入ると古利根川の堤防道である。その左側は芦や荻が繁茂した深い溝堀になっている。これが江戸時代から明治期に繁昌をみた増林河岸の着船堀でありその先は古利根川に合わさる。

 かつては葛西用水路を下ってきた積荷の一部は逆川(鷺後用水路)から当所に積み替えられ、または当地域の産物がここから積み込まれて中川通りから江戸入りしたのである。明治二十三年の古利根川河岸場調べによると、増林河岸には高瀬舟が具(そな)えられ、年間の出舟入舟は三五回、輸送量は米麦三八二五俵、大小豆一四八俵、醬油五五〇樽その他を扱っているとある。現在河岸の積み下ろし場は日新舗道建設越谷工場になっており、着船のために設けられていた溝堀も一部は埋め立て工事が進められていてちょっと解りずらいが、堀川の古利根川合流路口に架せられたコンクリート橋の上からみると、今でも河岸場跡の面影を窺うことができる。

 一方川幅のやや広い古利根川は、その流水が古利根堰で堰止められているため、年間を通じて水量に大きな変化はなく、その両側の広々とした河原には芦などが生い茂っている。また堤防沿いのたたずまいは、増林側では昔ながらの状態を保っているが、対岸の松伏側は集落から離れた畑地であったこともあり、開発が進んでいる一角で新興の住宅が建ちならびつつある。ここから少し行き増林浄水場を過ぎると、欝蒼とした樹木に覆われた一角がある。江戸時代一時増林村の名主を勤めたこともある旧家関根家の屋敷地である。

 関根家は明治・大正期にあっても近在切っての大地主であったが、大正末期の小作争議のはげしかった際四〇町余歩の所有田畑のうち一三町余歩を自ら進んで小作農に解放した。当時農地解放は危険思想のあらわれとみられていただけに勇気のある措置であったに違いない。文化人を新戚に持つ関根氏は、あるいは当時盛んであった有島武郎・武者小路実篤らに代表される人道主義思想の影響を強く受けていたのかもしれない。

 この先から屋敷林のつらなる増林の集落は堤防道から遠く離れ、堤防下は一面の畑地が広がる。もとここは古利根川の遊水池の一つで、集落の裏手にあたる所に中堤と呼ばれた小道がありこの小道を境に堤外と称されたが、もとは荒地であったようである。その後「榎本家記録」によると天明年間(一七八一~八九)増林村名主榎本熊蔵が、叔父宮川七郎左衛門と申し合わせ、雑草や灌木が生い茂る堤外を開拓して桃樹を植林した。この桃樹は見事に成長して大桃林とななり、桃実の産出高は増林の桃として築比(現松伏町)地や袋山などと肩をならべた。しかし明治二十三年の関東大洪水に水が入りほとんどが枯死してしまったとある。現在この堤外は畑地となっており、そのなかにバタリー鶏舎などもあるが、集落の裏手に行くと今でも処々に桃林をみることができる。

 またこのあたりは養鶏の餌付けの落ちこぼれをついばむしらこばとが群生している地域で、広い畑地や木立のなかでしらこばとの遊ぶ姿や鳴声を何処でも見たり聞いたりすることができる。このしらこばとの遊ぶ畑地の堤防ぎわに大きな石塔が一つぽつんと立てられているのをみることができる。これは女講中によって造塔された嘉永二年(一八四九)の地蔵尊の立像である。木枯しの季節などは人気のない畑地を背にして一沫の淋しさをさそうが、陽気のよい季節には、いかにも長閑な風情を感じさせる純朴な農村情緒の一つとして心を和ませてくれる。

 やがて古利根川に架せられた朱塗りの鮮やかな鉄管橋が目の前に現われる。これは江戸川の表流水を取水した飲料水としての水道送管である。このあたりから集落はまた堤防沿いにつらなり屋敷林や堤防並木の道になるが、この先はまもなく増森の地である。

増林河岸跡
古利根河畔の石地蔵