増林観音堂と宝正院

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 舗装された県道平方東京線は、増森の地に入ると狭くなるが、左手の畑地に通じる農道を行くと増森の集落地に入る。ところどころ水田地があるがこれは掘揚田であろう。畑地のなかには雑草の茂るまま荒れている個所もあるが、おそらく農家でも勤め人などで人手が足らないため放置されているのかもしれない。こうした畑地の中に朱塗りの鳥居がありブロック造りの祠が置かれているが、この祠の中には香取宮と記された額が納められている。

 集落入口の農道の四辻を左に折れて行くと、朱塗りの古びた堂舎が畑地の先に見える。これは大永三年(一五二三)の創建を伝える歴却山観音寺と称された真言宗寺院跡のなかに残された観音堂である。観音堂のわきは墓地になっているが、墓地に隣り合わせた参道に沿って、天保四年(一八三三)の光明真言供養塔、文政元年(一八一八)の普門品一万五千巻供養塔、文政十二年(一八二九)の十九夜塔、嘉永七年(一八五四)の自然石による普門品供養塔、それに横に倒れかかった椎の大木を支えるように立てられている自然石の敷石供養塔がある。これには句が刻まれている。しかし半ば傾いて土に埋もれているのでこの句を判読するのは困難である。この左手の墓地の墓石は多い方とはいえないが、なかに寛永四年(一六二七)、同十年、ならびに年代不詳の古い宝篋印塔墓石などがみられる。

 周囲は畑地で人影もなく鶏の鳴声があちこちから長閑に聞える。ここから農道を辿って行くと寺院がみえる。天文二十一年(一五五二)の開山を伝える清龍山不動院宝正院と称される真言宗寺院である。もと東照寺と称したが日光の東照宮をはばかって東正寺とした。その後明治四十四年増森の宝蔵院を合寺し昭和十一年寺号を宝正院と改めたと伝える。参道はコンクリートで舗装されており、その入口にトタン屋根で囲まれた台石ごと三メートル余の宝暦六年(一七五六)造塔になる地蔵の立像が立てられている。

 その先は比較的規模の大きな墓地になっているがその入口にトタン屋根で囲まれた六地蔵、四地蔵を陽刻し因念消滅地蔵尊といわくありげな文字が刻まれた昭和九年の地蔵供養塔、それに延享二年(一七四五)の馬頭観音供養塔などが墓石に交って立てられている。

 墓地の中には元和五年(一六一九)のものをはじめ寛永記号のもの、それに風化して年代の読みとれない宝篋印塔墓石が数多くみられる。ちょっとみただけでも一〇基以上は確かめることができ、古い墓地であることを窺わせる。また後年の角塔墓石の中には〝天地(あめつち)の ふかき恵にふそくなし 喰(たべ)たり着たりこれまでの恩〟という辞世と思われる歌が刻まれた墓石などもあるが、なかに「清寿院殿観心性蓮大尼霊位」とある文化元年(一八〇四)の墓石がみられる。もちろん院殿大尼号は身分制のきびしかった江戸時代では一般の人には許されず大名か上級旗本の奥方などに使われる戒名である。伝えによると増森のある娘が御城にあがり殿様の側室になったといわれその人の供養墓石ではないかともいわれるが、くわしいことは不明である。

 墓地を出て本堂境内に向かった所にトタン葺の小さな山門があり、その先は広場のような境内地である。境内のわきに歴代住職の墓石がならべられているが、ここにも寛永三年(一六二六)在銘の宝篋印塔墓石がみられる。境内正面の本堂や庫裏は瓦葺の堂々たる構えであるが、これは七、八年前に再建されたもので、明治二十四年の火災後、庵室のような堂舎で維持されてきたのである。

増森観音堂
増森宝正院