河川の改修と伝説

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 宝正院を後にして畑地が広がる農道を行くと、木立に囲まれた農家が霞のなかに遠く望見され長閑な田園気分を誘う、この畑地のはずれは古利根川であるが、その手前の畑地に朱塗りの稲荷の宮祠が建てられており、その前に宝永七年(一七一〇)の庚申講中奉納の庚申供養塔と、元禄十四年(一七〇一)の石祠が置かれている。この辺りの古利根川はちょうど庄内古川との合流口にあたる。この古利根川の堤防道を南に向かって行くと、葦などが繁茂する湿地に沿って右方に続く道がある。

 これが大正十三年の河川改修まで曲流していた古利根川流路の堤防道である。はじめ増森からの河川改修は、川によって鳥のくちばしのように突き出ていた増森の地を、増林下組香取神社わきから増森神社わきにかけての直道開削が計画されていたが、地元の強い反対にあい現在のように吉川町榎戸を分断した直道改修に変更された。これにより榎戸は吉川町の飛地という形になったわけであるが、越谷との境界は今でも古川跡によって区画されている。

 なおこの古利根川の曲流地点は、もとセイケ淵と称されもっとも水丈(た)けの深い所であった。ここに古くからセイ魚と称される巨大な魚が住みつきセイケ淵の主として存在していたが、セイケ淵はその後土砂に埋まって浅くなったため、セイ魚は住みずらくなり、兄弟のすんでいるという鐘ヶ淵(現墨田区)に移転した。当時増森は晒業が盛んでほとんどの農家が農間晒業を営んでおり、この生産された晒布を船に積んで江戸に出荷していた。

 ところがセイケ淵のセイ魚が鐘ヶ淵に移転してからは晒を積んだ船が鐘ヶ淵を通るたびに転覆するという事故が続出した。そこで増森の人びとが集まって協議した結果、船が難破するのはセイ魚のためだと一決し、以後鐘ヶ淵を通るときは必ず「俺は増森の者だよ」とセイ魚に挨拶することにしたところそれからは無事であったという。これは増森に伝わる伝説の一つである。

 現在この古川跡は一部を除き越谷市と吉川町の塵芥処理場に利用されている。古川跡は次第に埋め立てられており、吉川町榎戸と増森が地続きになるのもそう遠い将来ではなかろう。一時隆盛を誇った増森の晒業も河川改修後は井戸水を用いていたが、急激に廃業する家が多くなり、昭和の初年には姿を消したといわれる。

増森古川跡