慈光庵跡と増森神社

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 河道跡の堤防道から集落の間の小道に入り少し行くとやや広い舗装道にでる。増森の集落をつらぬく中心的道路であり二、三の商店などもみられる。この道を左に折れて行くとその左手に集会所に用いられている古びた堂舎があるが、ここは享録二年(一五二九)の創建を伝える慈光庵と称された真言宗の庵跡である。現在楽師堂と呼ばれているが、この境内の片隅に天正三年(一五七五)在銘の二十一仏板碑がトタン葺格子戸囲いの中に収められている。この二十一仏種子の板碑は全国でも三九基しか発見されていないが、増森のものはこのなかでも完全な形で残されており、この種のものでは代表的な板碑として県の有形文化財に指定されている。

 この板碑に続いて数基の僧侶の墓石が土中に埋まって立てられているが、その先の空地のはずれに供養塔がならべられている。それらは万治二年(一六五九)の庚申結衆供養塔や天保十二年(一八四一)の馬頭観音供養塔、祠堂型の地蔵供養塔、コンクリート造りによる柱状型の三峯神社の祠、そのほか「赤岩わたし道 榎戸わたし道」と道しるべが付された文化十二年(一八一五)の文字庚申塔、「西こしがや 北ましばやし 東のだ 南よし川道」と同じく道しるべが付された元治二年(一八六五)の文字庚申塔、同じく「西こしがや大さがミ不動 東赤岩わたしのだ 南よし川道」とある嘉永元年(一八四八)の成田不動尊供養塔、同じく「右こしがや道 左のだ山さき道」とある文化四年(一八〇七)の青面金剛庚申塔である。これらの石塔はもとそれぞれの道端に立てられていたものだが、道路の改修などの際ここに集められたものであろう。このほか境内には弘法大師の座像を納めた木造りの祠堂と稲荷の祠が建てられている。

 ここから県道は間近いが、この県道を少し行くと木立に囲まれたこじんまりした神社がある。増森の鎮守増森神社と呼ばれているが、もとは水神社と称された社(やしろ)である。入口に奉納水神と刻まれた嘉永七年(一八五四)の力石、皇紀二千六百年記念とある昭和十五年の石柱、昭和四年の自然石による伊勢参宮記念碑、敷石をはさんで嘉永五年の御神燈と元治二年(一八六五)の御手洗石、その先に増森神社と記した額を掲げた朱塗りの木の鳥居がある。参道の右側の家屋は、もと神主の住居であったとみられるが今は無住である。

 この先の境内地には文化十三年(一八一六)の文字庚申塔のほか、境内二畝二〇歩の地に杉二五〇本を奉納した旨の昭和二十七年の植樹記念碑や、紀元二千六百年を記念した木斛一樹の奉納記念碑、同じく檜二六本寄進の記念碑が立てられているが、現在の境内地は木斛の大樹が残っているものの、数本の銀杏や欅のほかまばらな杉木立があるだけである。ただ臼にも使われるような檜の大木が切り倒され適当な大きさに切断されて置かれているので、もとは見事な檜の大木が枝を広げていたに違いない。神殿は鉄筋コンクリート造りであり最近建て替えられたようにみえる。

 ここから先は千間堀通りの項で紹介した通りである。帰りは少し遠いが中島の地を横断して中島橋を渡り県道越谷吉川線に出て、そこからバスに乗るほかない。直線にして行程およそ六キロ余、越谷に残された数少ない農村地域であり、農村の田園情緒を偲びながら歩くには最適のコースといえよう。

増森神社