千間堀は現岩槻市長宮から春日部市豊春地区を流れ、恩間新田・大泊・船渡・間久里・大吉・増林・増森を経て中島地先から古利根川に落とされる新方領域の落とし堀(排水路)で、現在新方川と称されている。「千間堀旧記」によると、元禄十二年(一六九九)千間堀上流筋の村々は、大吉村地先葛西用水路(逆川)の伏越樋を切り広げ、なおまた千間堀の流末を花田古川に掘り通し、同時に大泊・船渡の両堰を取り払うよう奉行所に願い出ている。
これに対し奉行所では見分吟味の上訴願通りの普請を幕府の費用で施工した。
これでみると当時千間堀は用排水兼用の堀であり、かつ葛西用水路の下をくぐる埋樋から増林の水田地に落とされていたようである。これが元禄十二年千間堀上流村々の訴願により、逆川の伏越樋が切り広げられるとともに、その流末は花田古川(荒川河道跡)の先端部まで延長された。その後花田古川が新田に開発されるにともない流路はさらに延長され増林地先の元荒川に落とされて排水機能の充実がはかられた。
こうして千間堀は排水堀とされたが大泊や船渡地域の農民は、極度の用水不足から田方養水を必要とするときは、元禄度の奉行所の達しにかかわらず、千間堀を堰止めて灌漑用水を取水していたので、逆水に悩む上流村々との出入争論が絶えなかった。このため天保八年(一八三七)大泊・船渡などの村々は妥協策として須賀用水を上間久里村地内北裏圦から掛樋で用水を引き入れ、新たに用水堀を引くことを奉行所に願ったが、これも許されている。
ところで千間堀の名称はどこからきたのであろう。千間堀の長さから推すと、長宮村から増森地先の元荒川落とし口までは全長八七一五間余で、古い頃の流末大吉村葛西用水路埋樋までの長さでも六三五五間余である。おそらくこの名称は、長い堀を表現するため単にこれを千間堀と称したか、あるいは普通水の流れが少ないことから浅間堀といったのを何時からか千間と記されるようになったものか、いずれも今のところこの名の起こりは不明である。
現在千間堀の流域は国道旧一六号線(野田街道)を境にその上流の弥十郎や大泊などで住宅の開発が進んでいるが、下流筋は市街化調整区域にあたるためか今でも水田地や畑地の広がりをみせた昔ながらの田園地域を保っている。さてこのコースは東武バス北越谷発または越谷発弥栄団地行に乗車、弥十郎住宅入口で下車して弥十郎の地から辿ってみることにする。