弥十郎村

101~102/222ページ

原本の該当ページを見る

 弥十郎村は表沼・裏沼などの小名にみられる通り、もとほとんどが沼沢地であったが、江戸時代の初期大房村の住民弥十郎が中心になって開発を進めた所で、村名はその名をとって弥十郎村と名付けられたと伝える。村高は『正保田園簿』(一六四四)で一四〇石余、『天保郷帳』(一八三〇~四四)で二二〇石余とあるので、江戸時代を通じて開発が進められた地であることが知れる。田畑の比率は九六対四でほとんどが水田で占められた低湿地である。戸口は文政五年(一八二二)現在で三〇戸という小村であったが、現在弥十郎と弥栄町一~四丁目に区画され、合わせて二四二〇戸(昭和五十四年十月)を数える越谷でも有数の過密地になっている。

 はじめこの地は昭和四十年から三四万平方メートルの工業団地造成事業として団地の開発が進められた所だが、昭和四十二年都心から三〇キロ圏内の工業団地を規制した首都圏整備計画法の施行により、造成中の工業団地が住宅団地に切り替えられた。現在縦横に通じる舗装道で整然と区画されたなかに秩序を保ちつつ、すき間なく住宅が建ちならんでいるようであるが、全体的にみると古くからの集落周辺を中心としてまだ水田地や空地が多く存在しており、まだまだ住宅地としての発展が予想される地域である。