弥十郎稲荷神社

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 東武バス弥十郎住宅入口で下車すると、進行方向左手の店舗裏が弥十郎の鎮守稲荷神社である。この辺りも住宅団地になる前は、灌木や雑草に覆われた用水路と排水路が平行して南北に流れ、その傍らに畔道のような一筋の野道が通じており、その左右は見渡す限りの水田地で、わずかに集落を示す農家の樹木のかたまりがはるかに望見できたに過ぎなかった。今はその面影は何処にもみあたらないが、これは決して遠い昔の話ではなかったのである。

 さて稲荷神社の入口はバス停手前の道路から入ったところで、やや広い境内地に松を中心に杉や銀杏の木などが植えられている。その周りは住宅を間近にしたわずかな水田ながら、神域を守るような形で残されており静かな一角をなしている。入口に昭和二年の花崗岩の幟立と、大正十二年の鳥居が建てられており、それに慶応三年(一八六七)の御手洗石が置かれている。また敷石をはさんで文久三年(一八六三)の御神燈と昭和七年奉納になる子連れ狐をかたどった彫像一対、それに神殿の右側の松の木の下に五十貫目、三十六貫目などと刻まれた寛政七年(一七九五)や弘化四年(一八四七)在銘の奉納力石が四個ほど置かれている。神殿は瓦葺格子戸造り奥殿を具えたやや大きな構(かま)えである。このほか神殿左側の空地に水神宮の石祠を納めた木の祠と天満宮の祠堂があるが、この祠堂は建設寄付者名の板札から昭和四十六年の建立であるのが知れる。

 このほか弥十郎の神社としては、バス路線の道路をはさみ、稲荷社とは反対側の住宅地の奥にも一本の枝ぶりのよい松の木が目標となる、香取神社と称されている社がある。境内地は金網とブロック摒で仕切られ、いたって狭い。入口に大正十五年建立になる花崗岩のやや大きな鳥居があるが、神殿は一見祠堂のような小さなもので、そこに五社新築記念と記された板札が掲げられているので、この神殿は昭和五十年の再建であることが知れる。また神殿の傍らに古峰神社と大口真神の御符を納めた祠堂が建てられている。『新編武蔵』には弥十郎の神社として稲荷社と天神社しか記されていないので、この香取社はその後の勧請になる社ともみられるが、くわしいことは不明である。

 ここから少し東に行った所に、小さな墓地がある。ここは地蔵堂と呼ばれた寺の跡である。石の地蔵尊を納めた小さな堂舎があり、その横の道沿いに文化十年(一八一三)の十九夜塔や六地蔵が墓石とともにならべられている。また地蔵堂の前の墓地は雑草が生い茂ったままであり、この中に墓石が頭をのぞかせているのが、また風情ある趣を添えている。

弥十郎稲荷神社