鷺後用水路

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 墓地前の道を少し南に進むと、コンクリートで補強された落とし堀に出る。この堀を境に弥十郎の住宅地は吐切れてその先は水田地や空地が広がる。ここは大沢の鷲越(わしこし)と称される大沢の村はずれにあたる所であるが、ここも区画整理が進められており、水田地の多くはすでに野原と化している。やがて密集した住宅街となるのも遠い将来ではなかろう。こうしたなかに今はその機能も失ってしまったが、灌木や雑草の生えている昔ながらの用水路が残されている。この用水路に沿った畔道を行くと、石垣で固められた一筋の流路に出る。春から秋にかけては満々と水が湛えられるが、秋から春にかけては、水が干上がって底をみせる葛西用水路である。別名鷺後(さざしろ)用水路とも逆川とも称されている。

 この鷺後用水路は寛永六年(一六二九)荒川流路の和田吉野川(入間川筋)への付け替えで水量の激減した瓦曾根溜井の代用水として、古利根川の河道を利用した中島用水(後の葛西用水)が開発されたが、これにともなって造成された中島用水路の一流路であり、大沢地蔵橋で元荒川と合流し瓦曾根溜井に導流された。なおこの鷺後用水路は、もとの荒川が花田を迂廻して流れた曲流路より以前の河道跡であり、流路の形が残されていたため、これを利用した用水路の造成はさほど至難な工事ではなかったであろう。