水神宮から国道旧一六号線を渡り千間堀の堤防上に出ると、その角に大きな記念碑をみることができる。昭和八年建碑になる新方領堀(千間堀)改修記念碑である。すでに新方領は大正五年に耕地整理が完了していたが、新方領の排水幹線である千間堀の排水機能は当時劣悪であったようである。この記念碑の碑銘によると、新方領堀は南埼玉郡新方村をはじめ二町六ヵ村にわたる面積四三〇〇町歩に及ぶ排水幹線路で延長約三里(一二キロメートル)に達する。
ところが本川は河幅が狭隘で河床隆起し流水は充分でないうえ、さらに新方領樋管(ひかん)(鷺後用水路埋樋)によって排水機能がいちじるしく阻害され、一朝豪雨があると沿岸耕地は忽ち水があふれ、その被害は甚大であった。このため中川改修工事の完成にともない本川の改良工事を計画し、昭和二年国庫補助のもとに工を起こし、昭和八年竣功をみた。その結果湿田変じて美田と化し、湛水被害も根絶したという旨が刻まれている。
なおこのとき増森から元荒川に落とされていた千間堀の落とし口は、中島地先の古利根川に付け替えられた。今でも増森の元荒川落とし堀の跡は篠竹が繁茂する一部の堤跡や元荒川の落とし口などにこれを見ることができる。また現在の千間堀は自然のままの土堤なので、荻や芦や篠竹その他の雑草が堀から堤の上にかけて生い茂っているが、新方川の拡幅補強の改修工事が現在下流から施工されており、数年後には石垣で舗装された新しい新方川が誕生するとみられる。しかし同時に荻や篠竹などが群生した自然のままの流路の情緒が失われるのはいかにも淋しい思いだが、これは筆者だけの感傷だろうか。
さて千間堀右岸堤に覆いかぶさる樹木の下枝や堤防の篠竹をかき分けて進むと墓地の前に出る。今は瓦葺平屋建ての集会所になっているが、ここはもと香正山梅光院と称された修験寺院の跡である。集会所の前から墓地に入ると、トタン屋根囲いのなかに年代不詳の六地蔵が収められている。この地蔵の台石には、それぞれ「諸龍地蔵」「伏息地蔵」「禅林地蔵」「無二地蔵」「護讃地蔵」との地蔵名が付されなかに奉納者の名が刻まれたものもある。このほか六地蔵の前には天明九年(一七八九)の観音像を戴いた普門品三万巻供養塔ならびに、宝篋印塔墓石の相輪部が数個置かれているが、その台石などはみあたらない。
また墓地の出口の生け垣の下に嘉永六年(一八五三)と元治二年(一八六五)の馬頭観世音供養塔が立てられているが、その先に横道が通じている。この道の右手の突き当りに石の鳥居を前にした木の祠堂がある。これは天満宮社である。この社の傍らに安永四年(一七七五)の青面金剛供養塔と、大師像を陽刻した寛延四年(一七五一)の石塔が置かれているが、これには「三界万霊有無縁等」と刻まれ台石には「右こしがや道、左のじま道」と道しるべが付されている。その先の一角は梅光院代々の墓所であったとみられ、権大僧都法印などとある角塔墓石がならべられている。このうち嘉永二年(一八四九)と明治元年(一八六八)の筆子中とある住職の二基の墓石は、最近造成された石囲いの一段高い中村家の墓所に移されているが、明治元年の保栄法印の墓石には、その出身地や修業地などの由緒とともに、梅光院で寺小屋を開き一〇〇余人の子弟に学業を授けた旨が刻まれ、さらに〝むさし野の ちぐさに宿る月かけも はかなくきゆる風のしら露〟との辞世とみられる歌が刻まれている。おそらくこの墓石をこの墓所に移した中村家は、この保栄法印との縁者の者でもあろうか。