元荒川の河道跡と花田西円寺

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 梅光院を後にし千間堀の堤防道を行くと、左手ははるかに広がる水田耕地、右手も増林定使野の水田耕地である。このうち右手の畑地の中に通じる野道を行くと、芦などの雑草が生い茂る落とし堀に出る。ここから水田地にかけた幅の広い低地が花田を迂廻したもとの荒川(元荒川)流路の河道跡である。この河道跡は越ヶ谷よりと東越谷(東小林)よりが区画整理などですべて住宅地に化してそれとは解らなくなっているが、この辺りだけがまだその川跡の確かめられる唯一の個所である。水田地より一段高い左手に続く山林は、花田集落のしらこばとが群をなす屋敷林で、古い頃の川岸にあたるが、その対岸は野田街道(国道旧一六号線)がそれであった。

 ここから旧流路は曲折して小林(現東越谷)の地に続くが、落とし堀の石橋を渡り、この河道跡の水田を畔道ずたいに横断して坂をのぼると花田集落のはずれに出る。ここから細道は間もなくT字路になるが、その左手の畑地に通じる畔道を辿っていくと旧流路の堤防上に出る。ここからも旧河道の跡が歴然と確かめられるが、この曲流部の頭部は千間堀によって分断されている。しかし旧流路の対岸は千間堀に続く水田地の先の堤防道であると一目でわかるので、その川幅なども今に知ることができる。

 ちょうどいま立っている花田の旧堤に、数基の石塔が建てられている。その一つは温和な地蔵の容姿を具えた等身大の僧形の立像である。この後背に「為源海三十二年菩提也」とあり承応四年(一六五五)の銘がみられるので、源海という僧の供養塔であろう。地元ではこれを「スマツカラの地蔵様」と呼んでいるが、そのいわれはつまびらかでない。昔古川を舟で運んできたが、当所まできたとき舟が動かなくなった。そこでスマツカラの地蔵様をここに下ろし今にお祀りしているという。その他正徳五年(一七一五)と安永□年の青面金剛供養塔、慶応二年(一八六六)の馬頭観音供養塔がならんで立っている。この石塔を中心とした周囲の眺望は素朴な農村的風情を今に残し、牧歌的な情景がかもされている数少ない所といえよう。

 ここから道を逆に戻り、舗装された花田集落の古道を行くと屋敷林の間から萱葺屋根の農家もみられ落ち着いた農村的気分が味わえる。しかし間もなく東越谷から続く区画整理の施工地となり様相はがらりと一変するが、そこに花田の真言宗西円寺がある。前後左右舗装道で囲まれた形になったが、これはきわめて最近の昭和五十四年のことで、それまでは西円寺の裏は古川跡に沿った樹木や竹林の茂みで覆われていた。また西円寺前の路傍に立てられていた大きな自然石による安政五年(一八五八)の猿田彦大神塔と、寛政十二年(一八〇〇)の「天満大自在天神」の石祠は、同じく昭和五十四年西円寺境内の一角に新造の石垣で囲まれた稲荷神社の境内地に移されている。このほか境内には三峯神社の木の祠なども建てられているが、新造の稲荷の神殿は瓦葺鉄筋で堂々たる構えである。

 一方西円寺境内の一角は、稲荷社の敷地や消防器具置場で占められているがまだかなり広い。正面は無住の寺ながら瓦葺の大きな本堂で、それに続く集会所や左側の薬師堂も立派なものである。本堂前に立てられている磨石による本堂薬師堂集会所の再建記念碑によると、その再建は昭和四十五年である。その建設資金は、東小林(現東越谷)の土地区画整理事業の進行にともない、この地に所有した花田共有地を越谷市に有償譲渡して建てたものとある。現在墓地内の墓石は整頓されつつあるが、薬師堂前の墓地の入口には以前の通り安永五年(一七七六)奉納になる水盤や、文政七年(一八二四)と文久三年(一八六三)の文字庚申塔、天明七年(一七八七)と万延二年(一八六一)の十九夜塔、寛文六年(一六六六)の念仏講中四〇人の造塔による阿弥陀陽刻供養塔などが立てられている。また墓地の奥にも寛政十二年(一八○○)の青面金剛文字庚申塔、天保十四年(一八四三)の文字庚申塔、安永七年(一七七八)の庚申供養塔、それに地蔵を陽刻した下に「庚申」と刻まれ、「右江戸道、左庄内道」と道しるべが付された石塔がならべられている。なお墓石にはさほど古い年号銘のものはみあたらない。

 西円寺を後にして舗装されているものの曲折した花田の古道を千間堀に向かうと、道の左右に一面の畑地が広がる。もともと花田は荒川旧流路に沿った自然堤防地帯で、古川跡の水田地を除くとほとんどが畑地であった。なお花田の地名は越ヶ谷の鼻の先であるからとも、またこの地が古川の曲流につつまれた地で、天狗の鼻のような形状から名付けられたとも伝える。

花田古川堤の石塔
花田西円寺