城ノ上の稲荷神社と公共施設

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 道は間もなく昭和五年の架設になる千間堀のコンクリート橋にかかる。鷹匠(たかじよう)橋と名付けられている。この橋は、もと土橋で江戸時代鷹匠が越ヶ谷から増林村の鷹場野廻り役榎本家に行くとき渡った橋なので鷹匠橋と称されたと伝える。橋を渡り千間堀に沿った道を行くと、左手は広々とした増林の水田地、右手はこんもりした一筋の林が古川跡に沿ってつらなる。この山林は小林の集落に続く増林城ノ上の列村集落である。この集落の先の橋を渡ったところに住宅に囲まれた小さな神社がある。増林城ノ上の鎮守稲荷神社である。

 ブロック摒で囲まれた狭い境内地の中に、庚申年にあたる寛政十二年(一八〇〇)の青面金剛文字庚申塔と、「不動道、こしがや道」と道しるべが付された馬頭観音供養塔が置かれている。神殿は銅板葺のしっかりした神殿でありまだ新しい建造のようである。なお「城ノ上」という地名は徳川家康が放鷹のときの休泊所として所々に御茶屋御殿を設けたが、増林の地にも古い頃から御殿が設けられていた。このため人びとはこの地を城ノ上と呼んだとみられるが、この御殿は増林の林泉寺にあったともいわれ、その後慶長九年(一六〇四)越ヶ谷に移されている。当時増林のうち御殿のあった所を中心に広い地域でこの名が用いられていたが、ここだけに城ノ上の地名が残ったものとみられる。

 さて千間堀沿いの道を先に進むと、右手にそびえたつ近代的な高層建築物が見える。これは昭和五十年開院になる越谷市立病院と市立看護専門学校、学校給食センターなどの建物である。また行く手にみえる煙突のある建物は、県東部清掃組合のし尿や塵芥の処理場である。昭和四十二年に第一し尿処理場が稼動して以来逐次拡張整備が進められて今日に至っている。この処理場の手前と後方は市営の総合運動場でテニスコートや野球場などが設けられているが、この先には昭和四十六年の開設になる県立青年の家がある。また処理場の先には越谷市清掃事務所や埼玉県食肉衛生検査所・越谷食肉センター、そのほか日本蓄産興業などの施設が設けられている。こうしてこの地域は一かたまりの施設地帯になっているが、もとは一面の水田耕地であったところである。

東部清掃組合