恩間新田は越谷市のなかでも最北部にあたり、打出の小槌の様につき出た形で春日部市と岩槻市の中に入りこんでいる。当所は慶安年間(一六四八~五二)恩間村名主渡辺佐介観昭が開発した地といわれ、その功により当時の支配岩槻城主阿部対馬守より一町歩の免租地を与えられたと伝える。江戸時代は恩間村に属し岩槻藩の支配に置かれていたが明治四年恩間村から分村し恩間新田村を構成した。その後明治二十二年の町村合併で大袋村に属した。
ちなみに明治八年当時の恩間新田村の戸数は三〇戸、人口は一七一人、馬三疋であり、田畑の比率は一〇対一とほとんどが水田によって占められていた。現在の世帯数は一三三、人口五四七人(昭五四・一〇現在)で、どちらかといえばまだ開発の進んでいない地域だが、武里団地(春日部市)側から次第に住宅の開発が進んでおり、やがてこの地にも都市化が及ぼうとしている。しかも昨今恩間新田の水田地に独協大学付属高等学校の建設が進められており、この地が大きく変貌するのも時間の問題といえる。