能満寺跡と稲荷神社

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 高等学校の通学路として造成された舗装道を少し行き、雑草に覆われた千間堀の堤防道をそのまま行くと、恩間新田の集落地に入る。人影もない静かな集落で、車輛の往来であわただしい学校建設の現場とは対照的な情景である。この昔ながらのたたずまいをみせた農家が散在する集落を、東西に貫く一筋の舗装道がある。この道を行くとつげの植木のもとに、嘉永二年(一八四九)の月山湯殿山羽黒山三社大権現とある廻国供養塔とともに、乃木希典篆額による日露戦争戦死者の墓誌碑が建てられている。

 またここから少し行った道の傍らに墓地が見られるが、ここはもと能満寺と称した真言宗の寺院跡である。荒れるがままに放置されている小さな堂舎とその裏に若干の墓石がならんでいる墓地があるが、あまり古い墓石はみあたらない。ここから間もなく道は用水堀に突き当たる。これを左手に折れて行くと恩田新田の鎮守稲荷神社がある。道に沿って朱塗りの木の鳥居があるが、この鳥居は最近再建されたもののようである。

 境内はいたって狭いが、その参道の敷石をはさみ、明治二十七年の御手洗石、明治二十二年の阿迦獅子一対、文政元年(一八一八)の狐の石像一対、明治期のものとみられる御神燈一基、金五十万円奉納とある昭和四十年の寄付記念碑、またその手前の鳥居の傍らには、江戸期のものとみられる天神宮の石祠と、天神社とある小さな石塔、その脇に天神像を祀ってある木造の祠がある。

 神社の神殿は瓦葺のこじんまりした社殿であるが、板壁に掛けられた神社造営の額からみて昭和七年の再建になるものらしい。拝殿の庇(ひさし)に香取大明神と正一位稲荷大明神とある石の額が掲げられているが、神域の隅に大正五年の香取神合祀記念碑が建てられているので、この社は香取と稲荷の合祀社になっていることが知れる。このほか神域の隅には延享二年(一七四五)の午頭天王の石祠や明治二十九年の稲荷社屋根葺替寄付連名碑などが立てられている。狭いながらも境内には若干の杉や松、桜の木などが植えられており静かな神域をなしている。境内と隣り合わせに住宅が一軒建てられているもののここは春日部市との境で、まだ水田地も多いが、東方の春日部市側からひしひしと住宅が迫ってくる感じである。

恩間新田稲荷神社