稲荷神社を後にし、堀に沿った小道を戻り、舗装道に出てさらに行くと、右手に樫の木とみられる大木を中心とした小高い築山がある。築山の頂上に浅間大神とある明治二十四年の青石による自然石が置かれているので、社殿や祠こそないが当所は浅間神社の一つとわかる。その下に同じく明治期のものとみられる結社人名碑が建てられており、これには「わすれても 親の跡踏 ふじまうで」との歌が刻まれている。この築山は浅間講中結社のときの造成になるものか、それ以前からの丘かは不明ながら、築山の下に嘉永三年(一八五〇)の文字庚申塔と、それに年代不詳の青面金剛庚申塔が倒れたまま半ば土に埋もれて置かれている。したがって当所には古くから何かが祀られていたのかもしれない。またこの築山の裏に明治四年の不動像を戴いた成田山供養塔が、小屋囲いで納められている。
ここから先の堀向かいは、春日部市大場の地であるが、堀に沿った水田地の傍らに明治三十一年建碑になる鈴木昇月寿蔵の碑が建てられている。この碑銘によると鈴木寿蔵は大場の人で、明治六年から大場学校の教員を勤めたが、のち大場・大畑・増田三村の戸長を勤め、またその後子弟の教学にあたった旨が刻まれている。さらにその裏面には「麗や 松に巣籠る 鶴の舞」との句とともに、鈴木氏に世話になった門下生一〇七名の名が刻まれている。