さて先程の浅間神社碑が祀られている築山前の堀に石橋が架せられているが、この橋を渡って行くと左手は恩間新田の集落だが、右手は一団の新興住宅地、その先は武里団地のはずれにあたる春日部市大場のうち小名谷中の地となるが、そこに谷中の鎮守稲荷神社がある。道に面して花崗岩の幟立が立てられており、そこから続く敷石の参道を行くと花崗岩の鳥居がある。境内は細長くて狭くしかも樹木の茂みもないが、稲荷神社は珍しく草葺屋根のこじんまりした社殿である。
この神殿の前は築山で、明治二十一年の「浅間大神」と刻まれた青石による自然石が置かれているので、ここも浅間山であろう。この築山の周りには大正三年の冨士登山記念碑、大正十四年の冨士頂上(登山ヵ)記念碑、明治二十二年の御手洗石、その他盤長姫命、弥都波能売神と刻まれた碑などが立てられている。
また神殿の裏手は集会所の建物になっているが、その前の狭い露地をへだてて享保十四年(一七二九)の青面金剛庚申塔、宝永七年(一七一〇)の宝塔型遍照金剛供養塔、享保四年(一七一九)の六角六地蔵塔、寛政六年(一七九四)の普門品供養塔、享保十年(一七二五)の観音像供養塔、享保十一年の不動尊像供養塔、安永二年(一七七三)の青面金剛文字庚申塔、文化七年(一八一〇)と文久三年(一八六三)の文字庚申塔、嘉永五年(一八五二)の湯殿山西国等巡拝供養塔、大正四年の普門品奉読記念碑などが一列にならべられている。
さらに神殿の裏側にも、明和七年(一七七〇)、嘉永四年(一八五一)など三基の筆子中による天神宮の石祠、それに元禄十六年(一七〇三)の神体不詳の大きな石祠が置かれており、そのほか二基の記念碑が立てられている。その一つは大正四年建碑になる稲荷社田の誌碑で、これには豊臣家の臣萩原六右衛門は、元和元年(一六一五)の大坂落成後、諸国を遍歴してこの地に土着、宝永年間上田を稲荷社に寄進した旨が刻まれている。もう一つは谷中稲荷神社碑で、これには原大隅守は甲斐の武田氏に属し、武勇とくにすぐれた武士であった。このため織田氏によって敵対視され圧力を蒙ったが、大隅はこの難をのがれて当地に土着、この地の開発に努めるとともに稲荷社を勧請した。すなわち原大隅は原又右衛門の祖である旨などが刻まれている。
ちなみに原又右衛門は明治期における南埼玉郡の有力なる政治家で、新方領耕地整理の組合長などを勤めた功労者であるが、現在この家はなくなったといわれる。
大場山谷の稲荷神社から道を東にとって進むと、途中大場の鎮守香取神社などがあるが、さらに行くと東武鉄道の踏み切りにかかる。この辺りは大畠の地であり、この踏み切りの手前に大畠の鎮守香取神社がある。ここでは例年七月十五日に昔からの慣例として、やったり踊り(弥勒踊り)が奉納される。この踊りは県の無形文化財に指定されており、当日は見物客で大賑わいをみせるという。
踏み切りを渡った左手が明治三十二年十一月の開設になる武里駅で、現在橋上駅になっている。この駅名は、明治二十二年備後、一ノ割・大場・大枝・大畑・中野・薄谷・増田新田の八ヵ村によって構成されたときの旧村名で、この地域は現在武里地区と呼ばれている。