間久里は江戸時代、行政的には上間久里村と下間久里村に分かれていたが、古くは上下の別はなく一つの里をなしていた。この間久里の地名の起こりは大里とともに条里制の遺名ともとられているが、条里遺構が確認できないので何ともいえない。一説には間久里はその前後に人里がなかったので、久しい間の里という意味から間久里と名付けられたとも、間久里はもと沼沢地のなかで、真菰が繁茂していたことから真菰の里と呼ばれたが、これが間久里に転嫁されたとも伝える。
いずれにせよ間久里や大里は江戸時代武蔵国埼玉郡新方領のうちに含まれたが、村高は『元禄郷帳』によると上間久里村は高四七三石余、戸数が五五戸、下間久里村は五二一石余、戸数が五〇戸、大里村は三五一石余、戸数が四五戸、田畑の比率はおよそ田七に対し畑三という標準的な村であった。明治二十二年の町村合併には大泊・平方とともに桜井村を構成したが、現在これらの地は行政区分として桜井地区と称されている。