上間久里香取神社と恩間勢至堂跡

130~133/222ページ

原本の該当ページを見る

 東武鉄道せんげん台駅の東口に出ると、その駅前は現在区画整理の施工中で、雑草の生い茂る空地と、広い舗装道との間にまばらに住宅が混在し雑然とした感じであるが、やがて駅前には繁華街が形成されるであろう。この区画地の前は車の往来がはげしい国道四号線(日光街道)である。この国道を右に折れて進むと間もなく道は二股に分かれるが、左の道は昭和三十年頃の拡幅舗装になる国道四号の新道で、右の道は日光街道の旧道である。

 このほか最近造成された舗装新道が右手に通じており、この新道を行くと右手に神社が見える。これが上間久里の鎮守香取神社である。入口に昭和九年造立の花崗岩の幟立、その先に大正十二年の自然石による大震災記念碑、次いで慶応二年(一八六六)の花崗岩の大きな一ノ鳥居と同年造立になるやや小さな二ノ鳥居が建てられている。石が敷かれている参道をはさんで天保十二年(一八四一)の御神燈と天保八年の小さな御手洗石が一対置かれている。また瓦葺のしっかりした神殿のわきに延享元年(一七四四)の稲荷大明神と弘化三年(一八四六)の水神宮、それに風化して年号や神体の不明な石祠が立てられており、その裏にはトタン屋根囲いに天明六年(一七八六)の「良公神」と刻まれた石祠と明治三十七年の自然石による天照皇大神の碑が収められている。このほか木の祠堂が二堂ほどあるが神体は不明である。

 やや広い境内には銀杏の大木を中心に杉や松の木などが枝を広げているが本年(昭和五十四年)十月の台風襲来で、このうち杉や松の木が数本根元から折られて横倒しになっている。こうして神域の樹木が少なくなっていくのは淋しい感じがする。神社の周辺はもと一面の水田地であったが、現在部分的には空地が広がっているものの、次々と新興の住宅が造成されて空地を狭めつつある。

 香取神社を後にしてさらにこの道を先に進むと東武鉄道の踏み切りになるが、これを越すと右手は昭和四十年から進められている千間台区画整理地で、広大な空地のなかにところどころ近代的な住宅や商店が建ちはじめている。また左手は道路を画して袋山の地であるが、ここにクラシックな二階建ての建物が見える。これは昭和四十三年十二月開設になる順天堂精神医学研究所であるが、この建物は東京の順天堂病院をかたどったものだという。その先の野地の向こうに鉄筋四階建ての建物が見えるが、これは昭和四十七年開校になる大袋北小学校である。このあたりから道は恩間の地に入るが、その左手はもと元荒川の河道跡で袋山との境をなした水田地であったが、現在この河道跡の上流は新興の住宅地としてことにはげしい開発をみている所である。

 また大袋北小学校から上間久里香取神社にかけては間久里、恩間の村はずれにあたっており、竹林や樹木の繁茂するなかに曲折した小路が草に覆われて通じていた、ことに淋しい一画であったが、千間台区画整理事業の進行にともない、古道の両側に繁茂した竹林や樹木が伐り払われ拡幅新道や排水溝が造成されるとともに新興の住宅が目立つようになった。

 こうしたなかで、道の傍らに欅などの大木が茂った丘状の丸塚が今に残されている。この丸塚の周囲から中腹にかけては「天照皇大神」「大雷大山津見神」「大雄山道了大神」「久能知命神」などという神の名が刻まれた自然石の小さな碑が数多く立てられており、その塚の項上には「天祖参神参明藤宏山」と刻まれたやや大きな碑が立てられている。これらの碑は明治以降の建碑とみられ浅間山とも思われるが、二抱えもある欅の樹令からみて古くからの塚であったに違いない。

 ここから道は丁字路になるが、これを左に折れた処にブロック摒で囲まれた墓地がある。勢至堂と呼ばれているが、江戸時代は真言宗の庵跡だったようである。入口に宝暦五年(一七五五)の青面金剛庚申塔と地蔵陽刻の墓石が置かれているが、その正面の片隅にも寛政五年(一七九三)の青面金剛庚申塔、明和二年(一七六五)の不動明王像陽刻供養塔、文政六年(一八二三)の笠付の弁才天像陽刻供養塔、文化五年(一八〇六)の阿弥陀像を陽刻した普門品供養塔などが置かれている。

 墓地にはあまり古い墓石はみあたらないが、下半分欠けた三仏板碑が集会所に利用されているとみられる瓦葺の平家の裏に、土をかぶったまま置かれている。調査すればまだこの地から板碑が出てくると思われるが、古くからの集落地であることは確かめられる。またブロックで囲まれた摒の外側に天保四年(一八三三)の馬頭観音供養塔と寛政九年(一七九七)の六臂の観音像が陽刻された馬頭観音供養塔、それに地蔵を陽刻した墓石がならべられている。

上間久里の旧日光街道
上間久里香取神社
勢至堂の石塔