道を元に戻って日光旧街道と新国道の分岐点から、今度は新国道を横断し、そこから斜に通じる細い砂利道を進もう。この小路は上間久里の集落を結ぶ古道で新国道の開通までは重要な村道であったが、この小路こそが古い頃の日光街道で、この街道に沿って農家が集住していたのである。つまり現在の上間久里の日光旧街道は後世の付け替え新道でその周辺は新開地であったのである。さてこの古道に沿った辺りはまだ屋敷林に囲まれた古くからの農家を中心とした地域で、集落のはずれは一部を除き水田地が広がっている。この道を入ったところに、小さな墓地があるが、この墓地の中には寛永十七年(一六四〇)在銘の宝篋印塔墓石が二基ほどみられ、古い墓地であることが示されている。
墓地を出て少し行くと左手に平屋建ての集会所が見える。もとは不動堂と呼ばれた寺庵である。この庵の前に最近まで墓石を含む数々の石塔が置かれていたが、区画整理が進められこれら石塔類はこの先の住宅の空地に移された。このうち寛文四年(一六六四)の観音供養塔と明治十八年の自然石による不動明王陰刻塔は、とくに新しく作られた屋根付ブロックの囲いの中に収められている。このブロック囲いに続いて文久二年(一八六二)の南無阿弥陀仏塔、享保十六年(一七三一)と明和七年(一七七〇)の青面金剛庚申塔、それに寛政七年(一七九五)の青面金剛文字庚申塔、その先に二〇基ほどの墓石がならべられているが、墓石の中に天和二年(一六八二)の五輪塔墓石などが交っている。
この一列にならべられた石塔群を後にして道を進むと比較的幅の広い舗装道に出るが、これを右折すると間もなく国道四号新道である。この国道の手前に通じる一筋の砂利道は、今通ってきた古道につながる道であるが、これを行くと比較的規模の大きな墓地の前に出る。古びた無住の庵が残されているが、ここはもと稲荷山正覚院と称された真言宗の寺院跡である。墓地の一画に大きな五輪塔や宝篋印塔墓石がそびえるように立てられているが、この墓石群はもと上間久里村の世襲名主上原家の墓石である。供養塔は念仏講中による宝暦十年(一七六〇)の地蔵供養塔しかみあたらないが、墓石のなかには寛永十年(一六三三)の在銘のものをはじめ、寛永十一年、同十三年、正保三年(一六四六)、慶安三年(一六五〇)、同四年などの古い宝篋印塔墓石がみられ、ここも古くからの墓地であることを物語っている。
この墓地から先に見える枝ぶりのよい国道沿いの松の大木、それに続くこんもりした樹木の茂みは、前記による上間久里村の世襲名主上原家の屋敷地であり、一部白壁の長屋門や屋敷地をめぐらせた囲い堀は鬱蒼とした樹木の茂みと共に昔ながらの面影を留めて今に残されている。