道はまた街道に沿ってつらなる下間久里の集落に入るが、左手の屋敷裏に下間久里の鎖守香取神社がある。ここで例年七月十五日に執行される獅子舞は、素朴で原始的な形態を残した珍しい獅子舞であるといわれ、昭和三十七年県の無形文化財に指定された。下間久里の獅子舞はいつごろから行われるようになったかは定かでないが、元和九年(一六二三)からともいわれ古い歴史をもった獅子舞に違いない。
ことに銚子口村(現春日部市)香取社は元禄十年(一六九七)、下総国清水村(現野田市)が元禄六年、赤沼村(現春日部市)が享保三年(一七一八)、中野村(現庄和市)が享保五年いずれも無双角兵衛一派による下間久里の太夫から獅子舞を伝授されたとあり、下間久里が当地域周辺の獅子舞の元祖であったことが知れる。この獅子舞の獅子はささら獅子と称され、太夫獅子・中獅子・女獅子の三体一組からなり、おのおの腹に太鼓をつけて踊るが、それに太夫や笛吹き、連中など総勢四〇人ほどで神社前を出発、夜半まで下間久里の各戸を廻り、家内安全五穀豊穣を祝うという行事である。曲は海道下り、宮参り、かたおろしなど一四曲あるが、とくにもと名主などの有力者の家では時間をかけて盛大に演じられたという。
さて香取神社の入口は街道から左手の細道を入ったところにある。参道は落とし堀に沿ってつけられており、その入口に埼玉県指定無形文化財芸能下間久里の獅子舞と記された教育委員会の標識が立てられている。この先に安政五年(一八五八)の角石による敷石供養塔と花嵩岩の鳥居が建てられている。敷石が敷かれた参道の正面は瓦葺のがつしりした神殿である。神殿の前に昭和四十八年建碑による磨き石の大きな香取神社新築記念碑が建てられている。
この碑銘によると当社は古くから田九畝二四歩のびしゃ田を所有していたが、氏子がこの田を当番制で耕作しびしゃの祭典費にあてていた。しかし間久里地域の都市化進展にともない昭和四十三年神社所有の田を金六一〇円で売却したが、この売却費をもって神殿をはじめ鳥居や下間久里会館新築の費用にあてた旨が刻まれている。したがってこの香取の神殿や入口の鳥居は昭和四十三年の建造であるのが確かめられる。
また境内の右側にコンクリート白塗り鉄扉の蔵造りのような建物がある。おそらくここに獅子舞道具などが収められているのであろう。この建物に続き鳥居を具えた稲荷の祠堂、このほか神殿の裏側にかけて大黒天を納めた木祠や三峰神社などの小さな木祠、ほかに小屋囲いされた疱瘡神社の石祠などが置かれている。境内の両側は堀割りで画されておりさほど広い境内地ではないが、堀割りに沿って銀杏の木や杉の木その他樹木が植えられている。しかしここも先頃の台風(昭和五十四年十月)で数本の木が倒され、それだけ淋しくなった感じがしないではない。