香取神社を後にして、どの家もすでに近代様式の家に建て替えられているものの、昔ながらの屋敷地が続く街道を進むと、路傍の所々に小さな墓地が目につく。各家ごとの墓所であるが街道に沿って墓所が設けられているのは面白い現象である。また屋敷沿いの細道を入った農家の庭先に、自然石による永禄二年(一五五九)在銘の難産除子育と刻まれた勢至菩薩像陰刻塔が立てられているが、はたして永禄二年の造立による石塔であるかはつまびらかでない。
ここから少し行くと平(たいら)という旧家があるが、その家の傍らに第六天社が勧請されている。勧請年はつまびらかでないが、江戸時代からの古社で足の不自由な人にはことに霊験あらたかであり、つねに「わらじ」が社前に奉納されていたといわれる。なおこの社には下間久里の高橋要蔵が文久二年(一八六二)に奉納した算額が掲げられていたが、現在市の文化財に指定されその保存措置が講じられている。
この第六天社は街道筋からは家に囲まれていてわかりずらいが、この辺りの街道右手に墓地がある。ここはもと春日山開演寺と称された真言宗の寺院跡である。現在ここには堂守りの老婆が住んでいる。中に入るとすでに風化して一面に刻まれている文字も判読できなくなっている巨大な宝篋印塔供養塔が立てられている。その塔の前に、寛永十一年(一六三四)在銘の宝篋印塔墓石や、筆子五十五人と刻まれた天保九年(一八三八)の墓石などがみられる。俗名は金子氏とあるがおそらく寺小屋の師匠であった人であろう。
この墓地の一軒置いた家の前に生け垣で画された露地がある。この小路を入って行くと萱葺屋根の上からトタン屋根で補強された縁側付格子戸造りの平屋がある。これが下間久里の不動堂である。ここはもと開演寺の墓地につづく境内地の一角でこの不動堂は寺小屋の校舎にも用いられていたともいわれる。今は不動堂に続く金子家がその管理にあたっているようだが、この金子家の先祖が開演寺墓地にある筆子中によって造塔された墓石の主であったかもしれない、さて堂舎の先の生け垣に沿って安永元年(一七七二)の月山湯殿山羽黒山供養塔、文政八年(一八二五)の十一面観音供養塔、同じく文政八年の青面金剛文字庚申塔、文政四年の「奉納千庚申」と刻まれた庚申供養塔、寛文五年(一六六五)の三猿が刻まれた初期の庚申塔、宝暦九年(一七五九)の「南無勢至大菩薩」と刻まれた勢至供養塔、それに延享四年(一七四七)の弁才天の石祠が一列にならべられている。
またその横道の生け垣の下に開演寺の僧の墓石とみられる卵塔墓石が数基置かれているが、なかに寛文五年の観音供養塔が交っている。このほか完形ではないが天文二十年(一五五一)在銘の一仏板碑が堂内に蔵されているはずである。この不動堂境内地の裏は若干の畑地になっているが、溝を境にその先は密集した新興住宅地で、その先に東武鉄道大袋駅がある。