明治十三年の下間久里村明細帳には、その製造物の項に「張子達磨四万個、中仙道熊谷宿及上野国(群馬県)館林町へ多く輸す」とあり当時張子だるまは下間久里農家の農間余業として盛んに作られていたことが知れる。この張子ダルマに関しては、ダルマの研究家木戸忠太郎氏によると、古くは疱瘡除(よ)けのまじない物として江戸の中期頃から江戸の市中で売られていたが、次第に縁起物として売られるようになった。
その後養蚕と結びつき目なしダルマが急速に広まった。つまり養蚕家は蚕が一せいに勢いよく眠りから覚(さ)め活動を開始することを最大の喜びとし、蚕が無事に目を覚すとともに、蚕の神に恩返しする意味でダルマに目を入れた(点晴)。これが一般の人びとの間にも広まり、商売繁昌、五穀豊穣を願って目なしダルマを求め、願いがかなえられると目を入れた。こうして目なしダルマは縁起物として多くの人びとに求められるようになったという。
下間久里を中心とした越谷ダルマは明和年間(一七六四~七二)ごろに高崎方面からその技術を導入してはじめられたと伝えられ、幕末から明治にかけてはことに隆盛をみたようである。現在でも下間久里や大里の地でダルマ造りの家が何軒かは残っているが、その出荷先は西新井大師や川崎大師などであるという。このうち大里の中村家がその由緒や産出高などでもっともよく知られている。