大里稲荷神社と秀蔵院跡

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 日光旧街道は下間久里不動堂を境として大里の地となり、間もなく昭和四十二年開通になる草加バイパス(現四号国道)と交差する。これを左に折れた所に神社がある。大里の鎮守稲荷神社である。車の往来のはげしい国道を杉の生け垣でしきっているが、やや広い境内には樹木や草地もなくがらんとした感じである。入口に昭和三十一年建立になる花崗岩の幟立と、「正一位稲荷大明神」と記された編額を掲げた鳥居が建てられている。

 拝殿は瓦葺、奥殿は銅板葺の立派な神殿だが、その傍らに昭和三十一年建碑による自然石の大きな稲荷神社改築碑があるので、この神殿は昭和三十一年の建造であるのが知れる。また稲荷神殿の右隣りに花崗岩の鳥居を具え石垣で築かれた土台の上に、銅板葺引戸のやや大きな社(やしろ)がある。何の神を祀った社であるか不明ながら、あるいは明治の末期に合祀された大里の八幡神社であるかもしれない。境内には文政十三年(一八三〇)の年号銘が読みとれるもののほか、年号や神体名が風化して不明になっている石祠が三基ほど置かれているが、庚申塔や供養塔などはみあたらない。

 稲荷神社を後にして国道四号線を渡り、暫く進むと左手にやや大きな墓地がある。その墓地の傍らに大里自治会館の看板を掲げた平屋建ての集会所があるが、ここはもと春日山秀蔵院と称した真言宗の寺院跡である。墓地のはずれの小道が墓地の入口であったとみられ、そこに正徳四年(一七一四)の青面金剛庚申塔、寛政十一年(一七九九)の文字庚申塔、天保十五年(一八四四)の月山湯殿山羽黒山供養塔、年代不詳ながら自然石の南無阿弥陀仏塔と第六天宮の石祠、それに文化十一年(一八一四)の普門品三万巻読誦供養塔が置かれている。これには深野権右衛門・下田長左衛門・中村吉右衛門・藤田三右衛門・山田七左衛門などの名が刻まれており、当時の大里村住民の氏名を知る手掛りの一つになっている。

 また墓地の奥まった集会所前の片隅にも、天保五年(一八三四)と享保二年(一八○二)の青面金剛文字庚申塔や文政十年(一八二七)の永代施餓鬼供養塔などが置かれている。墓地にはあまり古い墓石はみあたらないが、旧道に面してここにも銘文のよく判読できない巨大な宝篋印塔が建てられている。

 秀蔵院跡を後にして、古くからの集落を保ったままの屋敷地が続く街道を進むと、右方の家並の後方に高層の建物が目に入る。昭和五十年頃の造成による越谷スカイハイツというマンシヨンである。この辺りは鯛の島という下間久里の飛地で、もとは一面の水田地であった所である。また道の左手に越谷電報電話局大里分局と標示された建物があるが、この分局の開設は昭和四十八年十二月になるものであり、このとき市内の電話番号が大きく変った。

 さてこの分局を前にした路傍の空地に、いかにも街道の名残りを示しているような数基の石塔をみることができる。一つは寛政二年(一七九〇)の青面金剛庚申塔、一つは元禄十一年(一六九八)の観音像供養塔、一つは天和二年(一六八二)の地蔵像供養塔、一つは寛文九年(一六六九)の「奉造立石仏供養、衆中拾三人為二世安穏也」と刻まれた供養塔で、これには一三人の名が刻まれている。これらはもと街道の並木の下に風情よく立てられてあったとみられるが、道路整備のとき集められたものであろう。ここから東武鉄道の踏み切りにかかるが、この先の街道沿いは大林の入口まで(『越谷のふるさと散歩(上)』参照)は比較的宅地の開発が進んでいない地域で、落ち着いた街道の雰囲気を楽しむには恰好の道筋である。しかし全体的にみると以前にくらべて街道筋の並木や屋敷林の茂みが少なくなっており、若干退屈するかも知れないが、車の往来もさほどはげしくなく昔を偲びながらのんびり歩いてみるのも一興のコースといえよう。東武鉄道せんげん台駅からの行程およそ四キロメートル弱、帰りは北越谷駅に出るのもよいが、道を少し戻り大袋駅に出る方が近いようである。

大里稲荷神社
大里秀蔵院跡の宝篋印塔