荻島村

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 荻島村は明治二十二年の町村制のとき、南荻島・北後谷・砂原・西新井・長島・小曾川・野島の七ヵ村が合体して構成された旧村で、現在荻島地区と称されている。村名は合併時の村のうち最も規模の大きな村であった南荻島の村名をとったといわれる。なお南荻島・北後谷など、その村名に南北が付されたのは、明治十二年の郡制施行にあたり郡内に同一の村名があるのは紛らわしいという配慮から付されたものである。

 本コースは本書上編で取り扱った元荒川通り以外の西新井・北後谷それに南荻島の一部にわたる地域の旧跡を県道浦和越谷線を中心に辿ってみることにする。ところでこれらの村々は江戸時代南荻島が一部幕府領と旗本三給所で村高は一、三四二石余、戸数は一二八戸(天保期)、西新井が一部岩槻藩領と幕府領で、村高は一、一一〇石、戸数は八〇戸、北後谷が六ツ浦藩領で村高は三八六石余、戸数三五戸の村々であった。田畑の比率はおよそ水田地が六に対し畑地が四であったが、西新井と北後谷は九対一という水田地帯で蓮根などの栽哉も盛んであった。このうち北後谷の水田耕地は西新井や谷中・七左衛門の耕地のただ中に飛地の形で存在していた。

 集落は元荒川流域にあたる南荻島の一部を除いては、およそ元荒川と綾瀬川をつなぐ河川乱流時の旧河道跡にあたる微高地につらなっている。このうち住宅開発の進んでいる地域は南荻島出津などで、全体的には一八五三世帯(昭五四年一〇月)を数えるが、西新井が二九二世帯、北後谷が八五世帯で戸数の増加率は小さくどちらかといえば古くからの農家を中心とした昔からの集落を持続している所が多い。