西新井西教院と斎藤家

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 県道沿いに立てられている石神井神社の標識塔から道をへだてた正面は、その開山僧が元亀三年(一五七三)の寂年を伝える日照山光明寺西教院と称される浄土宗の寺院である。道路に面しその入口は若干の広場になっているが、山門はなく花崗岩の門柱がその入口を示している。その門柱の右手の空地に成田不動尊の木の祠堂が建てられている。その前に寛保三年(一七四三)と宝暦十三年(一七六三)の青面金剛庚申塔と、慶応三年(一八六七)の御手洗石が置かれている。

 門柱の間から境内地に入ると松や猿すべり、銀杏の木などが植えられており、閑静な境内のたたずまいをみせているまた境内の右手に最近補修された鐘撞堂があり、そこには昭和五十四年鋳造のま新しい梵鐘がかけられている。参道の正面にそびえるように建っている瓦葺の本堂は昭和四十四年の改築で、本堂に続く近代的な建築になる庫裡は昭和五十一年の新築、境内にそれぞれの改築記念碑が立てられている。このほか樹木の茂みの中に大正九年の敷石供養碑や、明治十六年の弘法大師遠忌供養碑などがあり、そのわきに〝ミちはたの 木槿は馬に食れけり〟との芭蕉句碑が立てられている。

 この芭蕉句碑の裏面にも〝たいらなり 初曙の昇汐 白扇〟と読みとれる句が刻まれているが、この白扇とは元治元年(一八六四)に没した西新井村御料名主斎藤徳三郎である。徳三郎は名主を勤めるかたわら白扇と称し寺小屋の師匠をしていたとみられ、墓地の中の斎藤家墓所に筆子中によって造塔された墓石がある。この芭蕉句碑ももとはこの墓石の前に立てられていたものである。

 さて境内左手は生け垣で仕切られた墓地になっているが、その生け垣に沿って享保十二年(一七二七)と文化十四年(一八一七)の南無阿弥陀仏供養塔、享保十八年の六十六部廻国供養塔、享保四年の地蔵尊像供養塔などがならべられている。やや規模の大きな墓地の中のもっとも奥まった所に西新井村の世襲名主斎藤家の墓所がある。このなかに後世の造立ともみられる天正十四年(一五八六)銘の桃林道見とある墓石がある。斎藤家はその家譜によると、その祖は斎藤若狭守と称し、岩槻城主太田氏房の重臣で後世の謚名を華岳院殿桃林道見大居士とあるので、この墓石が初代の斎藤氏墓石であろう。

 しかし家譜では斎藤若狭守は天正十八年(一五九〇)六月十日岩付城中で戦死したとあるので没年に多少の疑問が残る。また二世加左衛門尉氏貞は、実は太田氏房の一子岩月丸で、岩槻落城の際氏房の内室に抱かれ西新井の斎藤家を頼って落ちのびたが、その途中内室は野島山地蔵尊に岩槻城の武運をうかがった。ところがこのとき地蔵の両眼から涙が溢れ出たのを見てすでに武運がつきたのを悟り、岩月丸を従者に託し自らは地蔵尊前の浄庵沼(荒川大川とも)に身を投じた。その遺骸が西新井に漂着したが、斎藤氏は塚を築いてこれを厚く葬り、塚の上に椿の木を植えた。以来人びとはこの塚を椿割塚と呼んで供養を欠かさなかったという。

 なお後世の供養墓石とみられる天正十八年六月十日年号銘の太田下総守室と刻まれた墓石が、西新井堀の内の斎藤家(今は退転してその家はない)前の梨畑の中に立てられていたが、ここが椿割塚であったところかもしれない。また伝えによると岩槻落城のとき斎藤氏とともに当地に落ちのびてきた太田氏の家臣には、江戸周防、同一楽、同半助、三ツ木佐渡、三ツ木縫殿などがいたといわれる。このうち今は江戸姓の家はみあたらないが三ツ木姓の家は今でも西新井には多いようである。

 また西教院墓地には斎藤家のほか幾多の家々の墓所があるが、あまり古い墓石は見当らないようである。このほか本堂の傍らに歴代住職の墓所があるが、このなかに筆子中によって造塔された明治十八年の住職の墓石がある。ちなみに明治五年の学制発布の際、翌六年から西教院に西新井学校が開設されたが、この住僧は寺小屋の師匠から引き続き小学校の教師として子弟の教育にあたった人かも知れない。

西新井西教院
天正14年銘のある斎藤氏墓石