西教院を後にして県道を越ヶ谷に向かって行くと左手に花卉(かき)栽培を行なっている新井家がある。この家は江戸時代西新井村のうち岩槻藩領の名主を勤め私領名主と呼ばれた家であり数々の古文書を所蔵していた。ところが突然の火災に遭って家ごと焼失したが、幸い段ボール一杯分が運び出されて助かった。この残った古文書は現在市史編さん室に保管されている。
ここから間もなく末田大用水路に架せられた大石橋と称される橋にかかるが、これを左に入つた所に朱の鳥居を構えた木の祠堂がある。地元ではこれを山王神社と呼んでいるが、この中には延宝六年(一六七八)の三猿が刻まれた庚申供養塔が納められている。その祠堂の傍らに明和三年(一七六六)の石橋供養塔、文化九年(一八一二)の「のだ のじま道 江戸道」と道しるべが付された青面金剛庚申塔、それに明治三十二年建碑になる山王神社の由来碑が立てられている。
これには「当社(庚申供養塔)は延宝六年当地の鈴木・竹屋・大久保・新井・三ツ木・高橋の各氏によって造立されたものである。その後当社の手入れは怠り勝ちであったが、明治二十八年に至り奇異な風説がたちはじめた。すなわち近頃になって当集落に火災が頻繁になったのはいわれあることである。もともと西新井には山王が二座あり、西にあるのを西山王、東にあるのを東山王と呼んでいたが、西山王はこれを祠に納めて祭っている。ところが東山王はこれを放置しているのでその崇りにより災いがあるのである。そこで有志が相はかり東山王を祠に納めて祭ることにした」という意味のことが刻まれている。
また末田大用水路に沿った道を南に下って行くと、西新井内谷の集落がつきた水田地のきわに、比較的規模の大きな梨畑が見える。その一角に屋敷林に囲まれた萱葺屋根の昔ながらの構えを残した家がある。ここも新井という姓の旧家であるが、この家からは江戸時代関東郡代伊奈氏の家臣であった人が出ており、寛政四年(一七九二)伊奈忠尊失脚後は鷹匠頭戸田五介組の野廻り役を勤めていた名門の家である。この家には伊奈氏家臣当時の関係文書や野廻り役当時の関係文書そのほか家に関する諸文書が所蔵されていたが、現在この史料は市史編さん室に保管されている。
さて道を県道浦和越谷線の岩槻境まで戻り、県道と平行に通じる北後谷の集落をつらぬく古道を行くことにしよう。まず荻島耕地を貫通する幹線排水路に沿った道を北に進むと県立しらこばと水上公園に至るが、この公園の辺りは戦時中陸軍荻島飛行場が建設された軍用地であった。戦後米軍に接収されたがその後農地の開拓地に開放され一八戸の農家が入殖、恵まれた土壌と適当な耕地規模の経営で順調な発展をとげ、埼玉県の開拓農地中、その農業所得は第四位を占めたが、現在はほとんどが公園用地になった。
それはともかく県道から排水路に沿った道を少し入った右手に舗装道が通じているが、この道を右に折れて行くと、その道沿いは農家を中心とした昔ながらの静かな農村地域であり、道はまもなく北後谷の集落に入る。北後谷は砂原とともに江戸時代の元禄十一年(一六九八)から六ツ浦藩米倉領に組み入れられていた村である。ここも昔ながらの農家を中心とした集落地で、集落の向背は岩槻市にまたがる広々とした水田地帯である。
この後谷の集落に入ったところに墓地がある。光明院という真言宗の寺院跡である。堂舎はトタン葺の集会所になっている。この堂舎に通じる道に沿って寛政十二年(一八〇〇)の青面金剛文字庚申塔、同年の普門品供養塔、嘉永三年(一八五〇)と年代の読みとれない青面金剛庚申塔などがならべられている。この石塔郡の後ろは墓地である。
ここから少し行くと北後谷の鎮守稲荷神社があるが、神殿は祠のような小さな社で、石塔などは立てられてないようである。この道の突き当たりは末田大用水路に沿った市道と合わさるが、これを北上すると南荻島の地となる。