南荻島の古道と明王院跡

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 末田大用水路に沿った道はまもなく用水路に架せられた石橋を過ると用水路から離れるが、この石橋の手前に小規模な墓地がある。この墓地のなかに年号不詳ながら三尊板碑が立てかけられていたが今はみあたらない。この墓地の傍らにトタン葺きの小屋が建てられている。この中に正徳二年(一七一二)の六地蔵供養塔と寛文五年(一六六五)の観音供養塔が納められている。またこの小屋の手前の路傍に天明元年(一七八一)の青面金剛庚申塔と、安政五年(一八五八)の廻国供養塔が立てられており、この道は後谷などから荻島の集落に通じる古道であったことが知れる。

 石橋を渡り曲折した道をさらに進むと、また路傍に寛政二年(一七九〇)の青面金剛庚申塔や小さな墓所があったりして情緒のある古道の面影を偲ばせてくれる。このあたりは道に沿って若干の農家が散在しているものの左右は水田地でまだ静かな農村の一角といえる。ここから少し行くと住宅が建てこんでくる。その住宅が建てこむ前の左手の小路を入って行くとその突き当たりに比較的規模の大きな墓地がある。明王院と称された真言宗の寺院跡である。

 堂舎は同じく集落の集会所になっているがその境内の入口に「五風十雨 穀菽(豆)豊穣」と刻まれた大正三年の幟立が建てられている。おそらく集落の鎮守を兼ねた寺院であったろう。境内地は狭くしかもその左手は若干の杉の木立となっており、そこに寛政七年(一七九五)と宝永四年(一七〇七)の青面金剛庚申塔、延享二年(一七四五)と正徳三年(一七一三)の笠付青面金剛庚申塔、文化六年(一八〇九)の「南鳩ヶ谷道、北岩槻道」と道しるべが付された猿田彦大神塔などがならべられている。この石塔がならべられた木立の後ろは、生け垣で囲まれた墓地になっており、その墓地の入口にこじんまりした格子戸造りの大師堂がある。墓地の中の墓石は少なくないが、あまり古い墓石はみあたらない。

 この墓地の裏は、はるか県立しらこばと水上公園に続く荻島・砂原などの広々した水田耕地で視界をさえぎる住宅も少ない。ここは越谷のなかでもまだ都市開発のあまり進んでいない地域の一つといえる。明王院跡を後にしてさらに古道を進むと道沿いに商家などが建ちならぶ町場となるが、まもなく明治四十二年独立校舎として建設された荻島小学校の前に出る。学校前はバスの路線でもある県道岩槻越谷線であり、道を隔てて荻島公民館や越谷市農協荻島支店と接する。

 県道浦和越谷線通り岩槻境から、県道岩槻越谷線までのコースの行程は直線にしておよそ四キロメートル、車の往来がはげしい県道浦和越谷線沿いを除いては、農村の趣を多分に残している静かな一角で、これといって目立った旧跡はないものの、県道をはずれた裏道づたいにのんびり散策するにはもってこいのコースといえよう。

荻島明王院跡