伊原・麦塚

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 越谷市川柳地区は大字伊原・麦塚のほか上谷が含まれるが、上谷は江戸時代から明治二十二年の町村合併時までは大相模地区東方村の領分に組み入れられていた。この地域は古くは武蔵国崎西郡八条郷に含まれていたが、江戸時代は同国埼玉郡八条領のうちに属した。幕末期における村高戸数をみると麦塚が五〇七石余の七一戸、伊原が五八〇石余の七五戸と標準的な村々であった。田畑の比率はいずれも八対二でどちらかといえば水田地帯で農間莚やわらじ作りが盛んであったところである。麦塚の地名は砂丘などのムキ出しになっている所の塚、つまりムキ塚とも解されているし、伊原はイバルつまり開懇に関しての地名とみられている。

 明治二十二年柿木・南青柳・伊原・麦塚の四ヵ村それに東方村のうち上谷を合して川柳村を構成した。村名は柿木のカ伊原のハ、青柳のヤ、麦塚のギをとり「カハヤギ」と名付けられたが、通称かわやなぎと呼ばれたという。その後昭和二十九年町村合併促進法にもとずき川柳村は越谷町に合併することになったが、途中柿木・青柳などが草加町に合併することを主張したため両派は対立して紛争が続いた。結局川柳村は県知事の調停のもと昭和三十年八月一たん草加町に合併、同年十一月三日麦塚・伊原・上谷が改めて境界を変更して越谷町に合体した。

 現在当地域は行政区分として川柳地区と称されている。このうち葛西用水路をまたいだ伊原の地は早くから工場や住宅が進出した区域で、都市化の様相を深めたが、伊原の東半分ならびに麦塚と上谷は農家を中心とした古くからの集落が、広々とした田畑のなかに散在し農村的な面影が多分に残されていた所であった。本コースは新越谷駅発ならびに松原団地駅発の柿木に至るバスが県道柿木町蒲生線を通っているので、この県道を中心に川柳の旧蹟をたずねることにしよう。

麦塚の八条用水路