麦塚女体神社と智泉院

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 バス停麦塚で下車すると、その前は麦塚の鎮守女体神社であるが、江戸時代は女体権現社と呼んでいたようである。境内の入口に大正十一年の花崗岩の幟立があり、その向かい側に盛土の小さな丘がある。この丘の上に昭和六年の浅間神社と刻まれた石碑が立てられているのでこの丘は浅間社であろう。その先からは敷石の参道になっており、元禄八年(一六九五)在銘の石の鳥居が建てられている。境内には杉の木などが少し植えられているが、境内地が広いだけにがらんとした感じがないでもない。またその両側には自然石の記念碑が目立つ、すなわち昭和九年の百円奉納記念碑、昭和四年の伊勢参宮記念碑、昭和三十六年の冨士山登山記念碑、昭和四十六年の同じく冨士山記念碑、昭和四十四年の女体神社改築記念碑、昭和四十七年の神輿(みこし)倉建設記念碑などである。

 これらの碑から女体神社の瓦葺格子戸造りの堂々たる神殿は昭和四十四年の改築、境内に建てられている瓦葺の神輿倉は昭和四十七年の建造になるものであるのが知れる。このほか境内には大正七年の修繕とある御神燈一対と、文政八年(一八二五)の御手洗石、大正七年奉納になる阿迦獅子一対、また幟り用の柱置場の下に数々の石塔の台石や破片が積まれているので、もとは古い石塔類が数多く立てられていたに違いない。この境内の生け垣を境にその隣りは無量山智泉院と称される真言宗寺院の墓地である。この墓地との境目に神社側か寺院側かは不明ながら池が設けられており、池の中島に寛政九年(一七九七)の弁才天の石塔が一つ雑草に覆われたまま置かれている。

 一たん神社を出て県道側から石摒ずたいに神社と隣り合わせの智泉院に入ると、山門の傍らに享保十一年(一七二六)建立になる「不許葷辛酒肉入門内」と刻まれた柱状塔が立てられている。正面の本堂は瓦葺で、その造作は仏寺の粋を凝らした荘厳な構えである。この建物は本堂脇に立てられてある本堂新築記念碑からみて昭和五十二年の改築になるものであろう。なお明治十七年の麦塚・伊原・青柳・柿木の四村連合戸長役場、ならびに明治二十二年からの川柳村役場は、大正期まで智泉院に置かれていたが、当時は無住の寺であったという。

 本堂前には享保十年の宝篋印塔が建てられており、その先は規模の大きな墓地になっているが、この墓地のなかに寛永十二年(一六三五)同十四年在銘の宝篋印塔墓石をはじめ、正保三年(一六四六)在銘の五輪塔墓石その他年代不詳ながらいかにも古そうな五輪塔墓石が数多くみられる。さらにここからは数基板碑が発見されており、古くからの墓地であることが知れる。

 また山門の傍らにつづくブロック摒のもとに「新四国拾五番八十八ケ所」とある明治十七年の順礼標識塔をはじめ天和二年(一六八二)の光明真言供養塔、寛保二年(一七四二)の地蔵尊立像供養塔、明和九年(一七七二)と年代不詳の青面金剛庚申塔、享和三年(一八〇三)の百観音供養塔、延宝三年(一六七五)の南無阿弥陀仏供養塔などがならべられている。

麦塚女体神社
麦塚智泉院