伊原成就院と久伊豆神社

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 智泉院を後にして県道を蒲生に向かって行くと、まもなく伊原(現川柳町二丁目)の地となる。その右手に台風の時にでも折られたのであろう、その先端が無惨な折口をみせている松の大木が目に入る。ここも比較的規模の大きな墓地のある寺院であるが、この寺は威光山観音寺成就院と称される真言宗寺院である。

 古びた山門の前に弘化二年(一八四五)の普門品供養塔、山門をくぐった所に小屋囲いで明和元年(一七六四)の地蔵尊像供養塔などがある。その横手は歴代住職の墓所であるが、その手前にくずれ落ちた大きな延享五年(一七四八)の宝篋印塔が塔身や台石がくずれ落ちたまま置かれている。その台石にはてう・ゆり・りん・あきなど多勢の女人の名が刻まれているので、女人講中による造塔になるものであろう。本堂は萱葺屋根の大きな民家と同じような珍しい堂舎である。おそらく越谷ではここだけに残されている草葺寺院であろう。

 この本堂前に弘法大師の座像を納めた祠堂があり、その裏は比較的大きな墓地になっているが、なかに寛永八年(一六三一)在銘のものをはじめ同十二年在銘のもの、そのほか年代不詳ながら古めいた宝篋印塔墓石が数基ほどみられここも古くからの墓地であることが知れる。

 さて成就院の裏手は古くからの農家が点在し、その間あいだは畑地になっているが、その一角に伊原の鎮守久伊豆神社がある。神社前の砂利道は伊原の集落を結ぶ古道の一つであろう。この神社前の農家の摒ぎわに元禄九年(一六九六)と安永二年(一七七三)それに天明三年(一七八三)の青面金剛庚申塔が取り残されたように置かれている。小道をへだてた神社の入口には花崗岩の幟立と明治四十五年建立になる「久伊豆神社」とある柱状型の標示塔、その先に昭和四十二年の花崗岩の鳥居や昭和九年奉納の御手洗石、文政十年(一八二七)の御神燈などが立てられている。

 神殿は瓦葺の白壁づくり、こじんまりした社殿である。その横に立てられている社殿新築記念碑からみて昭和四十二年の改築であるのが知れる。また神殿の左手に、最近建てられたとみえるコンクリート造りの細長い祠堂がある。この祠堂は五部屋に仕切られており、それぞれ猿田彦・八坂・天満・古峰・御嶽の五神が祀られている。境内には若干の銀杏や杉の木が植えられているが、がらんとした感じがしないでもない。

 なおこの神社を背にして社前の古道を右に向かっていくと、屋敷林に囲まれた広い屋敷地がある。ここは伊原の旧家深井家で江戸時代は伊原の世襲名主を勤めた家である。また昭和二十九年の町村合併の際、川柳村を越谷町に合併させようと尽力したが、その大勢は草加町合併に傾いた。こうして一たん草加に合併した川柳村のうち伊原・麦塚・上谷を境界変更して越谷に合体させるのにあずかって力があったのはこの家の先代にあたる。

伊原成執院