伊原久伊豆神社を後にして道を左にとっていくと四ツ角に小規模な墓地がみえる。ここはもと八幡山光明寺地福院と称された真言宗の寺院跡である。最近墓地はブロック摒で囲まれ集会所なども建てられたが、以前は雑草の中の荒れた墓地であった。墓地のなかに文政十二年(一八二九)の念仏講中と庚申講中によって造立された六地蔵や、享保四年(一七一九)の光明真言百万遍供養塔などが立てられているが、あまり古い墓石はみあたらない。
この墓地の北側は数軒の農家を除いては一面の水田地であるが、このなかに集落持ちの稲荷神社がある。もとは八幡社であったがいつから稲荷神社に改められたかは不明である。用水路に沿った小道から神社に入ると、入口に昭和四十二年の石の鳥居、そのわきに文政六年(一八二二)在銘の奉納力石、大正十年の伊勢参宮記念碑が立てられており、左側の空地には、元禄八年(一六九五)の塞神と刻まれた青面金剛庚申塔、宝暦三年(一七五三)の青面金剛庚申塔、天明五年(一七八五)の女人講中による塞神塔が立てられている。
また敷石の参道をはさんで年代不詳の御神燈一対、文政九年(一八二六)の八幡大神と同年銘の天神の石祠、天保九年(一八三七)の疱瘡神とある石祠、それに「御嶽山座主大権現」などと刻まれた嘉永二年(一八四九)の自然石の塔などが立てられている。神殿は銅板葺朱塗りの小じんまりした社で杉や銀杏の木に囲まれ静かな神域をたもっている。
稲荷神社を後にして水田地を東に向かって行くと八条用水路に沿って一かたまりの集落をつくっている上谷の地になる。この地は江戸時代大相模地区東方の領分であったが、明治二十二年の町村合併の際、東方とは遠隔の地で学校や役場の往復が不便なことから川柳村に組み入れられたところであり、戸数は一〇戸程の小集落であった。今でも古くからの農家を中心とした農村地域で落ち着いた感じの集落をなしている。
この上谷集落のはずれを流れる用水路に沿って小さな神社がある。一時参詣者で賑わったといわれる天満宮社である。農家の庭先のような小道を行くと、明治十年の商人中によって建立された石の鳥居がある。その先に木小屋があるが、この中に天神などの絵馬が山と積まれており、何の御利益を授ける神か不明であるが、繁昌した頃の面影を偲ばせている。この木小屋の先は狭いながら松の大木に囲まれた荘厳な神域で、なかに銅板葺格子戸造りのこじんまりした神殿がある。その格子戸扉には数多くの絵馬がかけられていて、今でも信者による参詣が絶えないことを知らせてくれる。なおこの社の建築年代は不明であるが、奥殿の建物には彫刻がほどこされており荘厳な神殿のたたずまいをみせている。また拝殿の前には明治四年の御手洗石などが置かれている。
この天満宮の周囲は若干の農家が散在しているものの一面の水田地である。この水田地のなかに高層の鉄筋建築物が目立つ、それらは昭和四十二年開校になる川柳小学校、昭和五十二年開校の光陽中学校、同五十四年開校の明正小学校、同四十五年蒲生から移転した南中学校、それに八条用水路の東の水田地には同四十九年開校になる県立越谷南高等学校であり、この地域はさながら学校団地のような感を呈している。しかしもとはさえぎるものの何一つない一面の水田地であったのである。さらに今はその視野をさえぎって武蔵野東線が八条領の広大な水田地を二分して東西に走っている。