麦塚中村家と八幡神社

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 道を県道柿木町蒲生線に戻り、麦塚女体神社前の舗装道を南に向かって行くと、道路と生け垣の間に細長い参道をつくっているくずれかかった小さな社殿がある。麦塚の旧家中村家所有といわれる稲荷社であるが、ながい間この集落の鎮守として、縁日には盛んな祭典が執行されてきた。しかし今は社殿も破損するにまかせ、祭礼もやられなくなったという。こうして参道には天保八年(一八三七)の御手洗石が傾いたままになっており、さらに文化五年(一八〇八)の鳥居の石柱が倒れたまま置かれているが、地元の話では復興の計画もあるとのことである。

 ところでこの社の所有者である中村家は、この稲荷社から数軒の農家を隔てた先の屋敷林に囲まれた広大な屋敷地の家である。畑地を前にして明治の初年忍藩の武家屋敷から譲られたといわれる瓦葺のどっしりした長屋門を構え、由緒ありげな旧家の面影を偲ばせている。この家にはすでに古文書は処分されてないが一巻の系図が残されている。これによると中村氏の祖は多切弥八郎と称したが、実は結城の城主結城中務大輔氏朝の弟であり、結城合戦で結城城が落城したとき上総国中村郷に住し以来中村姓を称した。その後正忠の代北条氏に仕え天正十四年(一五八六)麦塚村に居を移したという。

 ちなみに「武州文書」には麦塚村吉兵衛所蔵として天正七年(一五七九)の北条氏の印判状が載せられている。この文書の内容は陣夫に関する争論の裁許状であるが、岩付衆中村右馬介にあてたものである。これによると右馬介は永禄十年(一五六七)上総国三船台で討死した岩槻城主道也(太田氏資)以来の岩槻衆である旨が記されている。当の右馬介が中村家系図にある天正十七年(一五八九)没年の岩松丸改右馬介朝武とある人物とみられるが、これから推して中村氏の麦塚移住は永禄年間にさかのぼると考えられる。さらにこの家は江戸時代を通じ麦塚村の世襲名主を勤めてきたが、宝暦三年(一七五三)から一時忍藩柿木領五千石支配の割役名主を勧めその身一代苗字帯刀を許されたこともある家柄である。なおこの家から元禄年間武蔵七党のうち野与党大相模次郎能高の後裔と伝える東方村の旧家中村家に養子に入った人などもいる。

 さて中村家周辺の一角は農家を中心とした古くからの集落の面影が残されているが、その外延部は田畑の中に小工場や新興の住宅が散在しており、しかも舗装新道が所々に造成されていて何か落着きのない感じがしないでもない。この住宅などが散在している田畑の中を通じている広い新道を蒲生方面に向かって行くと、東京葛西用水路に架せられた天神橋の前に出る。おそらくこの辺りに天神が祀られていたことから天神橋と称されたとみられるが、この社は現在不明である。

 この橋の一つ手前の道を左に入ったところに伊原新田の鎮守八幡社がある。境内は小工場と隣り合わせているがかなり広い敷地でその左方は集会所の建物になっている。コンクリート舗装の参道の入口に明治三十年の幟立、その先の木の柵囲いに年代不詳の地蔵尊像供養塔、文政九年(一八二六)の青面金剛庚申塔、元禄九年(一六九六)の阿弥陀立像を陽刻した供養塔が立てられている。

 その先に朱塗りの木の鳥居と昭和八年奉納の御手洗石、それに神殿の前に奉納力石などが置かれている。神殿は瓦葺格子戸造り、その横の一叢れの木立の中に「御嶽山座主大権現」などと刻まれた自然石の碑と、古びた木造りの祠が建てられている。境内には銀杏の大木を中心に杉の木などが値えられているが、左方は運動場のように広い空地になっている。

 これで伊原麦塚の主な旧蹟を辿ってきたが、このほか伊原には「塚のこし」と称し、経塚・鐘塚・行人塚の三塚があったといわれるが現在は不明、また麦塚には夫婦八幡と称され向い合った八幡の祠があったといわれるがこれも今は不明である。

明治期の麦塚中村家
井原八幡神社