天神橋を越して左に折れた道を行くと、道路と東京葛西用水路の間に日本鋳鉄などの工場がつらなっているが、その先は区画整理された新興住宅地になっている。所どころ住宅が造成されているがまだ空地が目立って多い。そのはずれは芦や荻が繁茂する細い溝で事故防止のための金網が張りめぐらされているが、これが武蔵国埼玉郡と足立郡を画したもとの綾瀬川流路跡で、寛永年間の直道改修後古綾瀬川と呼ばれ河道跡である。今でもこの溝を境に越谷市と草加市の境界をなしているが、この流域は最近まで沼沢地と水田地が広がる辺ぴな地域であった。現在その頃の面影はどこにもなく、わずかに蛇行し曲折する蘆荻の茂る細溝があるのみだが、この溝も昭和四十年頃の造成になる産業道路を境に人工のU字溝と化して蒲生の藤助河岸跡まで続く、やがて蘆荻の茂る古綾瀬川はすべて変てつもないU字溝に改められるのもそう遠い将来ではなかろう。
なお八潮越谷線と称される産業道路は、国道旧一六号線(野田街道)までつなげられる計画であったが、今でも蒲生のハヤミズ家具センター前で吐切れているままである。この産業道路の沿線には昭和四十八年開校になる蒲生南小学校などが建てられており、新興の住宅地として逐次住宅が建設されつつある。
こうして川柳のうち伊原・麦塚・上谷を循環して廻った。わき道が多かったためその行程はさだかでないが、半日あれば隈なく歩ける筈である。交通の便は新越谷駅発ならびに松原団地駅発の柿木行バスがある。この地域の集落は河川筋の自然堤防につらなるまとまった集落と異なり、三角洲の縁辺部に位置した平坦地で個々の農家が拡散した形で設けられている。しかも屋敷林もまばらなことから新興の住宅との識別が容易でなく古くからの集落をそれと見定められない所も多い。