出羽村は明治二十二年の町村制のとき大間野・七左衛門(現七左町)・越巻(現新川町)・神明下(現神明町)・谷中・四町野(現宮本町)の六か村が合体して構成した旧村である。村名は越ヶ谷郷の開発領主会田出羽が、当時沼沢地であった綾瀬川流域の干拓をはかり、排水堀としての出羽堀を開発したことに因(ちな)んでつけられた村名といわれる。古くは武蔵国崎西郡越ヶ谷郷に属したが、綾瀬川を画して足立郡との境界をなしていた。現在でもおよそ綾瀬川を境いに草加市や川口市に接している。
江戸時代この地域は埼玉郡越ヶ谷領に属したが、このうち綾瀬川流域の大間野・七左衛門・越巻の三村は、寛永年間会田出羽の一族当時関東代官伊奈半十郎忠治配下の地方代官であった神明下村の会田七左衛門政重によって開発が進められた地域であり、はじめ槐戸新田、あるいは七左新田とも称された。「正保田園簿」(一六四四)によると、当時の槐戸新田は一、〇二〇石余の村高を示していたが、それから五〇年後の元禄八年(一六九五)の検地には二、〇四七石余という正保期のおよそ二倍の村高が打出された。同時に槐戸新田村は、村高五八九石余の大間野村、同三五六石余の越巻村、同一、一〇二石余の七左衛門村の三村に分村された。このうち七左衛門村はこの地の開発者会田七左衛門の名をとってつけられた村名である。
ちなみに文政年間の戸数では越巻が三六戸、大間野が五四戸、七左衛門が一一四戸でほとんどが農家、田畑の比率でははじめ三村とも九七対三とほとんどが水田地で占められていたが、その後八五対一五とやや畑地が増加したもののおよそが低湿地で一望見渡す限りの水田地帯をなしていた。ことにここから穫れる米は越ヶ谷米と称され、またここで栽培された餅米は太郎兵衛餅という品種でともに良質なものとして高く評価されていた。このほか蓮根づくりや藁工品なども盛んであった。
なお当地の西端を流れる綾瀬川は、もと荒川の派川で加納村五丁台(現桶川市)から荒川(現元荒川)を離れて分流したが、古代の国郡界制定のときは足立と埼玉を画した大川であったとみられる。その後荒川の主流は現元荒川筋に移ったため、綾瀬川流域の自然堤防は未発達のまま取残され、場所によっては沼沢地と化した所が多い。したがって当地域の古くからの集落は、現元荒川や古利根川流域と異なりかならずしも綾瀬川沿いに展開されていた訳ではない。古い頃綾瀬荒川の乱流河道跡の徴高地に散在した形で集落を成していた。
このため本項では交通の便やその道程などを考えず広い地域に点在する旧蹟を無秩序に辿るほかなかった。しかも昭和四十二年の開通になる国道四号線(旧草加バイパス)や同四十八年開通になる国鉄武蔵野東線の貫通、それに工場や宅地の進出にともなう新道の造成などで、ここも古い集落や古道をそれとは見定め難くなっており、その旧蹟を辿るのも困難になっている。しかし以前は一望見渡す限りの水田地で、その間に樹木の豊かな集落が各所に散在していた地域である。