大間野辰の口橋と七左衛門下組稲荷神社

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 正光院跡の裏手は柳の木などが並木のようにつらなる新川(末田用水路)であるが、これに沿った道を北上すると道は県道越谷鳩ヶ谷線と交差する。通称赤山街道と称される古道の一つである。赤山とは江戸時代の寛政四年(一七九二)まで足立郡赤山領赤芝山(現川口市)に関東郡代伊奈氏の陣屋が設けられていた所で、この陣屋に通じる道として赤山街道と呼ばれたが、現越谷市赤山町はこの赤山街道に因(ちな)んで名付けられた町名である。なおこの県道は現在直道のまま綾瀬川に架せられた一ノ橋を渡るが、以前は越谷化成工業の先から左折し、よしずやストア前の一ノ橋を遠く迂廻して赤山に通じていたのである。越谷化成工業先の新道と、新一ノ橋が造成されたのは、おそらく昭和四十二、三年頃のことであり、当時は新橋のあたりは一面の梨畑と水田地で、商店などは一軒もない閑散としたところであった。

 さて道を新川通り辰の口橋に戻そう。ここはこの橋名にもある通り辰の口と称されている所であるが、この橋の下の川底に大きな穴があった。古い頃七左衛門方面の新田に新川の水を引きたいと願った人びとが神に祈りを捧げたところ、新川の底から突然龍が天上した。その跡に大きな穴があいたが、実はこの穴が赤山街道に沿って流れる用水路に通じていた。以来新川の水がこの穴から新田地域に流れたが、この奇蹟に喜んだ人びとは龍がつくったこの川底の穴をとくに辰の口と呼んで龍の徳を讃えたという。また一説にはこの穴は用水取水のため人工によって造られたが、用水が入ると滝のようにこの穴から水が落ちたので辰の口と呼んだともいう。

 このような伝説を残している辰の口橋から赤山街道を越ヶ谷に向かって行くと左手にやや広い道がある。この通りは七左衛門四ツ谷の集落に通じる古道であるが、現在この集落前後の水田地は所々埋立てられて新興の住宅が建てられている。また赤山街道はこの先国道四号線と交差するが、その手前から斜めに左手に入る道がある。この通りは七左衛門上組の集落に通じる同じく古道の一つであるが、その左手は日本歴青工業越谷工場の先から水田地が広がる。その右側の集落地の中に三明院という幕末期の創建になる修験寺院がある。そこは棕梠の木の垣囲いで静かな境内地をなしている。入口に小さな池があり石橋が架せられてあるが、境内に立てられている「花崗石橋記念碑」の碑からみて大正三年の奉納になるものであろう。この寄進者名をみると足立・葛飾・南埼玉・東京などの人びとが名をつらねており、三明院の信仰者範囲はかなり広かったようである。

 この外銀杏の木を中心に数々の庭木が植えられている境内には、明治元年の御手洗石、明治三十三年の「花崗岩八十一枚奉納」の記念碑、明治二十六年の東京講中による一対の石柱などが立てられている。成田山と記された編額が掲げらている本堂は瓦葺の細長い高屋根で、いかにも荘厳な構えをもった殿舎である。ことにその前に建てられている鐘楼は彫刻がほどこされた立派な建物だが鐘はかけられてない。

 道を元に戻り国道四号線を渡ってから赤山街道の右側に通じる人通りもない小道を進んでいくと、道の傍らに天神社がみられる。おそらく『新編武蔵』に載る天神社とみられるが、現在の神殿は昭和五十一年の再建になる瓦葺のこじんまりした社である。境内は一段高く盛土されており鉄の柵で囲まれている。入口に北野天満宮と記された額が掲げられている朱塗りの鳥居があり、境内の端に文化十一年(一八一四)の青面金剛庚申塔が一つ置かれている。

 この天神社から少し行くと道はやや広い市道に合わさるが、これを右折した所に七左衛門下組の鎮守稲荷神社がある。参道の右側は住宅になっているが、数本の赤松の古木が神社の存在を示してくれる。寛政六年(一七九四)の銘がある石の鳥居をくぐると明治七年の石の幟立がある。その左側に生け垣で囲まれた堂舎があるが、おそらくここは日照山持福院と称された真言宗の寺院跡とみられる。生け垣の周囲に若干の墓石かならべられているが、その中に享保十一年(一七二六)の青面金剛庚申塔や同年号の地蔵陽刻供養塔、寛政十年(一七九八)の阿弥陀立像陽刻供養塔などが置かれている。

 生け垣を出るとその先に木造朱塗りの二基の鳥居がある。その左方は児童公園と呼ばれている空地になっている。神殿は銅板葺の堂々たる構えであり、ことに奥殿には彫刻かほどこされ立派な神殿といえる。その横に立てられている稲荷神社由緒記の立札によると、当社は寛永三年(一六二六)の創立になる古社である。大正十二年の関東震災に倒壊したが、昭和三年に再建されたとある。神殿前には安永三年(一七七四)の御手洗石、昭和三年の社殿復興記念碑、昭和四十七年奉納になる狐像を戴いた石塔、このほか祠堂が二つほど建てられてある。境内の裏手には若干の樹木が植えられて静かな神域を保っているが、その裏手と左手はまだ水田地であり、その先に武蔵野東線が東西に走っている。ここの水田地も市街地に近いことから住宅地に開発されるのも遠い将来ではなかろう。

 またここから道を赤山街道にとり、武蔵野東線のガードをくぐってまもない出羽堀際に、屋根囲いで地蔵供養塔が立てられている。台石の銘は風化して読みとり難いが覚心法師という僧の供養塔である。地元ではこれを三ツ谷地蔵と呼び、娘が嫁つぐとき、赤子が生まれたとき、あるいは子供の帯解祝いには参詣をかかさなかったという。伝えに谷中村三ツ谷集落の旧家西川家に覚心法師という僧がいたが、この僧は諸国を遊説中元文二年(一七三七)に悪人に襲われて死去した。西川家ではこの僧の供養塔墓石を屋敷内に建立したが、以来不幸が重なったため赤山街道沿いの当所に移したといわれる。

七左町の末田大用水路(新川)
七左町三明院
七左町下組稲荷神社