七左衛門大沼大明神社

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 道を再び新川(末田大用水路)の辰の口橋に戻り、新川沿いに北上する県道蒲生岩槻線に道をとって少し進むと大間野の地から七左町の地となる。このあたりから道を左折して行くと、古綾瀬川の近くに大沼大明神社という小社が見える。なお古綾瀬川は「新編武蔵」によると「村(七左衛門)の西を流る川幅八間許り」とあるが現在は蘆荻の茂る細溝である。しかしここが今でも草加市との境界になっている。さらに『新編武蔵』新綾瀬川の項には「村の西界にて川幅十二間許り、いつの頃にや此川を通じて二条となりしより新古の名あり」とあり、綾瀬の乱流を示しているが、その距離はきわめて短かく、その下流は大間野の越谷霊廟地先で綾瀬川に合している。

 さて大沼大明神社は一名武主大明神とも、兵(もののふ)神社ともいわれるが、これに関して左の伝説が残されている。その一つは戦国時代戸塚の城主が戦いに敗れて戦場を落ちのびたが、途中深疵のためこの地で没した。里人はこれを憐れみ武主大明神としてこれを祀ったという。その一つは同じく戦国時代築城資材を舟に積み、当時大沼であったこの地を渡ろうとしたとき大風のため難破、舟は多くの兵士を乗せたまま沼底に沈んだ、里人はこれを憐れんで兵神社を勧請したともいう。

 いずれにせよこの地は古くは綾瀬川通りの大沼であったが、この地の開発にあたった会田七左衛門政重が開発の進捗にともない当神社を再興し新田部落の鎮守にしたと伝える(神明縁起書)。このあたりは七左衛門の村はずれで最近まで一面の水田地帯であったが、現在神社の裏手は一団の住宅地になっており、また神社前の広い埋立地には市立武蔵野中学校が建設されている。

 さて大沼大明神は盛土で一段高くなったところにある。入口に嘉永二年(一八四九)の幟立と大沼大明神とある額を掲げた花崗岩の鳥居、それに年代不詳の小さな御手洗石などが置かれている。神殿は瓦葺のこじんまりした社でその裏に宝永五年(一七〇八)の神体不明な石祠が一つ、境内には古木はないが杉の若木が植林されている。もと境内の裏手は墓地であったが、この墓地は神社の後ろ住宅地の一角に移されている。ここには十数基の墓石とともに、天明四年(一七八四)の青面金剛庚申塔、文化七年(一八一〇)と文政六年(一八二三)の文字庚申塔がならべられている。

 道を元に戻り新川沿いの県道を行くと右手は一面の水田地であるが、くわいの栽培も盛んで年の瀬にはその収穫で忙しい所である。右手はほとんどが工場の棟続きで越谷紙業・共同印刷・石井プレス・東海寝具・大伸化学などの越谷工場がつらなっている。さらに進むと武蔵野東線が目の前に現われるが、この手前の道から左に折れていくと古くからの農家を中心とした綾瀬川河畔の農村集落で、越巻(現新川町)のうち丸の内と称されている。

大沼大明神