ここから右手の新川に架せられた橋を渡り武蔵野線のガードをくぐって行くと七左衛門(現七左町)の地となる。途中朱塗りの小さな鳥居がならんでいる稲荷の祠堂がある。その入口に延宝八年(一六八〇)の三猿を陽刻した庚申塔と、風化してその銘なども読みとれない石塔が二基立てられている。この少し先から道は大きくカーブするが、そのカーブ地点に神社がみえる。七左衛門上組の鎮守稲荷神社である。
参道には枝ぶりのよい松が十数本並木をつくっているが、その入口に文政十三年(一八三〇)の銘がある石の鳥居が建っている。境内はやや広いがその中に塔身のない御神燈の台石、文化元年(一八〇四)の屋根囲いの御手洗石、昭和二十六年の鳥居玉垣建立記念碑が立てられているほか石塔類は見あたらない。神殿は瓦葺格子戸造りで奥殿には彫刻がほどこされ、立派な殿舎といえる。なお拝殿のなかに白装束の神主連による神事祭礼の有様が画かれた大きな絵馬が掲げられている。
神社の境内に接してその右手は墓石が立ちならぶ墓地であるが、ここは日映山観照院と称される真言宗寺院の墓地である。観照院はこの地の開発者会田七左衛門政重の開基になる寺院で、その山号寺号は日映観照という政重の法名をとって名付けられたといわれ、当寺には政重夫妻の木像が祀られている。また当寺の開山僧は越ヶ谷会田出羽家の出自(しゆつじ)をもつ小池坊尊慶という僧であるが、この僧はその後真言宗豊山派の総本山奈良県初瀬の豊山長谷寺第五世化主を勤めた高僧である。
観照院参道の入口は稲荷神社前の市道をカーブした先にあり越谷駅発越巻行のバス停にもなっている。敷石の参道をはさんで数株の木が並木をつくっているが、この木のもとに宝暦十四年(一七六四)の大きな青面金剛庚申塔、宝暦八年の念仏供養塔、同四年の大乗妙典六十六部供養塔、寛政四年(一七九二)の成田山供養塔、天保十一年(一八四〇)の月山四国等八十八ヵ所順拝の笠付供養塔、「新四国八十八ヶ所二十一番」とある天保二年の丸い柱状型の巡礼標識塔、明治四年の普門品供養塔などがならべられてある。
また松の臥木が横にかかる参道の突き当たりに萱葺の素朴な山門が建てられているが、これは越ヶ谷会田出羽家の門を移したものと伝えられ、建築年代は不明ながら鎌倉期の様式を残した建築物であるともいわれる。この山門前にこの年代では珍しく大きな承応三年(一六五四)の念仏供養塔が立てられている。また念仏供養塔の後ろにブロック屋根囲いの小屋があるが、この中には二組の六地蔵が収められている。また山門をくぐるとその右手に瓦葺の堂々たる鐘撞堂があるが、これにはまだ梵鐘はかけられてない。
猿すべりの木その他松や椎の木など常緑木が茂る境内には、元文二年(一七三七)のやや大きな宝篋印塔や風化してその銘が読みとれない小さな宝篋印塔墓石、また樹木の茂みのなかに弘法大師一千五十年遠忌の巨大な自然石による供養塔、そしてその脇に明治元年の句碑が立てられている。これにはおそらく俳句の師匠の作品とみられる〝行先の こころ強さよ 時雨笠〟との句が刻まれている。その裏面にも建碑者の句とみられる〝埋火や 消ても残る 炭の嗅き〟〝寒菊や 日の巡り来て 香の深き〟〝くるゝなら 問ふていへきを 雪の花〟と読みとれる句が刻まれている。
正面の本堂は瓦葺のどっしりした構えであるが派手な造作ではなく民家風のひっそりした感じの建物である。その左手は規模の大きな墓地である。墓地のなかに古びた観音堂があるが、利用されてないとみられ手入れが行き届かず荒れたままの感じである。墓地のなかには新田地のせいかあまり古い墓石はみあたらないが、風化してその銘が読みとれない宝篋印塔墓石が一基ある。当寺は前記のように会田七左衛門政重の開基寺であるが、寛永十九年(一六四二)に没した七左衛門政重は、神明下政重院に葬られており、ここには政重はじめ七左衛門家の墓石はない。
なお観照院の裏手は七左衛門上組名主を勤めた野口家の広大な屋敷地であったが、ここに建てられていた長屋門は城門のような構えをもった建築物であった。身分制のきびしかった江戸時代農民身分でこのような長屋門の建立は許されなかった筈で、おそらくこれは新田開発期に幕府が設けた陣屋であったとも考えられる。
七左衛門村開発以来、七左衛門村の世襲名主を勤めた会田氏の一族井出八郎兵衛(上組井出氏)が、寛保二年(一七四二)村方出入によって失脚後、野口氏がこれに代って名主を勤めたが、その入手経過は不明ながら当の野口氏が長屋門を含めたこの屋敷地を入手、最近まで野口氏の所有であった。昭和四十年頃この屋敷地は人手に渡り一時越ヶ谷城と名付けられた料亭になったが、その料亭も閉鎖され、昭和五十四年この長屋門は解体されて秩父方面のある資産家に引き取られたという。越谷の名物が一つなくなった訳である