観照院を後にして進むと比較的幅の広い堀にでるがこれが出羽堀である。出羽堀を越すと谷中の地である。谷中はもと四町野領分の新田地であったが、元禄八年(一六九五)の検地の際四町野村から分村した。当時幕府領であったが宝永二年(一七〇五)から岩槻藩の城付村に組み入れられた。村高は三六一石余ほとんどが水田地で戸数は四九戸(天保期)の小村であった。
さて出羽堀を渡るとその左手は明治三十四年に設置された出羽小学校である。現在の鉄筋三階建の校舎は昭和四十九年の竣功になるものである。また道の右手の一角に自然石の石碑が立てられているが、これは明治三十九年建碑になる日露戦争凱施記念碑、昭和三十三年の誠忠之碑、昭和三十二年の出羽校庭一部の土地寄贈顕彰碑、同四十一年の農免道開通記念碑である。ここからさらに道を進むと四号国道に合わさるが、その手前のT字路を左に折れて行くと、あづまポンプや南埼コンクリートなどの工場がつらなっている。やがて道は古くからの農家が散在する谷中の集落地に入るが、この中に寺院跡がある。
地元では観音堂が残されているので観音堂と称しているが、もとは林谷山西福院と称された真言宗の寺院跡である。入口に享保三年(一七一八)の青面金剛庚申塔、天保十一年(一八四〇)の普門品供養塔、昭和四年の西国霊場供養塔、文政元年(一八一八)の馬頭観音供養塔、自然石による昭和六年の同じく馬頭観音供養塔などが立てられている。また境内には安永二年(一七七三)の宝篋印塔や承応三年(一六五四)の庚申結衆供養塔、それに享保六年(一七二一)の地蔵尊像供養塔と六地蔵が屋根囲いのなかに納められている。
参道正面の観音堂は最近草葺から瓦葺に葺替えられたが格子戸造りの古びた堂舎である。その前に立てられている念仏講中による元禄八年(一五九五)の石燈籠には、宝暦六年(一七五六)観音堂再建と追刻されているので、あるいはこの建物は部分的には補修されているものの宝暦六年の建立になるものかもしれない。堂舎の扉の上に昭和十六年奉納になる「ありがたや大慈大悲の観世音、念彼の力福寿えんまん」と記された額が掲げられている。また堂内にはよろい姿の負傷した兵士二人を乗せた白馬を画いてある絵馬が納められているという。土地の人の伝えではこの絵馬は二〇〇年以前から観音堂に納められているものだが、何か困ったことが起きたときはこの絵馬に祈願した。すると必ず白馬に乗った神様が助けに来てくれると信じられ、谷中集落の守り神と崇(あが)められてきたという。ことに日清・日露の戦いに負傷した谷中の兵士は、いずれも谷中の白馬によって助けられたともいう。
筆者は実際に見ていないのでわからないが、こうして人助けのため出歩く白馬が絵馬のなかから逃げださないように、何時の頃かこの白馬に手綱が画き足されたともいわれている。こうした伝説を残した絵馬が納められている観音堂の横手は規模のやや大きな墓地であるが、新田地のせいかあまり古い墓石はみあたらない。なおこのあたりは若干の小工場や住宅なども建てられているがまだ古くからの農家を中心とした静かな一画で、その西北方は谷中をはじめ北後谷や西新井の耕地に続く見渡す限り一面の水田地である。