九之内稲荷神社と満蔵院跡

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 道を県道蒲生岩槻線に戻り新川橋から武蔵野東線のガードに向かって行くと左手に神社がある。越巻丸の内集落の鎮守稲荷神社である。丸の内集落では鎮守産社の祭礼が天和三年(一六八三)から執行されていたが、元文二年(一七三七)正一位稲荷の称号を授かり、以来稲荷神社と称したようである。丸の内にはこの産社の天和三年からの年番帳が今でも年番頭屋の家に保存されている。

 ところで神社の参道沿いに一軒の民家があるが、参道は雑草の生い茂る荒地のままでその空地のなかに元禄三年(一六九〇)の青面金剛庚申塔が一つ忘れ去られたように立てられている。荒地のような民家の前を通って篠竹の茂みがある先が境内地であり、その入口に文化十四年(一八一七)在銘の石の鳥居が建てられている。広い境内には石塔類もなく空地のようながらんとした感じであるが、神殿は瓦葺板囲いのがっしりした建物であり、その後ろに杉の木などが植えられてある。また神殿の脇に最近建てられたとみられるま新しい天満宮の祠堂が一つ、その横は武蔵野東線のガードに通じる県道である。

 この県道を隔ててブロック摒で囲まれた墓地があるが、これはこの地の開発者会田七左衛門政重開基になる永光山満蔵院と称された真言宗の寺院跡である。明治六年当寺に越巻学校が開校されたが、明治十四年七左衛門観照院の育幼学校に統合されている。

 墓地の中には若干の墓石のほか「新四国八十八ヶ所第二拾番満蔵院」と刻まれた文化十三年(一八一六)の柱状型の石塔があり、この裏面に〝仮の世にいとなむえきも〟などと歌が刻まれているが一寸判読しがたい。このほか正徳三年(一七一三)の地蔵尊像供養塔、嘉永三年(一八五〇)の自然石による普門品供養塔、昭和三年の虚空蔵堂改築記念碑、明治十三年の六地蔵陽刻供養塔、それに年代不詳ながら三体の仏像が小屋囲いのなかに安置されている。

丸の内稲荷神社