越巻薬師堂

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 満蔵院跡を後にして武蔵野東線のガードをくぐり右手に通じる道を少し行くと、正徳三年の建立を伝える薬師堂がある。現在は瓦葺の民家風の建物であり集落の集会所に利用されている。「おはかのなかであそぶとおそろしいたたりがあるぞ」と記された立札が立てかけられている規模の小さな墓地と憐り合わせてその手前は境内地だが、そのなかに正徳四年(一七一四)の地蔵供養塔、寛文四年(一六六四)と享保九年(一七二四)の観音供養塔、「百番四国供養塔」とある明治十年の石塔、それに榊の木の茂みのなかに元治元年(一八六四)の句碑が立てられている。この句碑には俳偕の師とみられる薫休居士の〝砧うつ 里の遠さや 花曇〟との遺稿の句が刻まれているが、この碑の裏にも

 此霧や 何処にいまして 竜田姫   専酔

 菜の花や 野守の処の 夕日和    魚定

 月落て 道うしなひぬ 時雨空    六山

 夢むるや 竹の中から さく菖蒲   亀甲

 若山の 裾に奇麗な 清水かな    米算

 川越へて 行かけ薄し 秋の蝶    坂翠

 あきの雨 覚束なくそ 暮にけり   松香

 誰が道を つけるともなし 花野原  孝保

との薫休居士門生による句が刻まれている。その下に筆子一二〇名の連署があるので薫休居士とは寺小屋の師匠でもあった人であろう。

 なお薬師堂内には嘉永六年(一八五三)の「色よきもの」と題したものはづけ奉納額が保存されている。これには〝瑠璃のかゝやき〟〝烏のぬれ羽〟〝雪のあけぼの〟〝江戸紫に京の紅〟〝官女の居ながれ〟など八〇名からの人による作品が記されており、当時越巻を中心に俳偕や歌などの文化がことに盛んであったことを偲ばせている

越巻薬師堂