道を武蔵野東線のガード下に戻り新川(末田用水)に沿った県道をさらに北上すると新川の対岸に地盛りされた空地がありその端に小さな木の祠がみられる。このなかに文化六年(一八〇九)・文久三年(一八六三)・慶応元年(一八六五)、また祠の傍らにも明治四十三年の馬頭観音供養塔が立てられている。おそらくここはもと死馬の捨場所であった所だろう。このあたりから右手の舗装道を入っていくと、水田地のなかに小工場が散在するが、その先は越巻中新田の集落となる。
ここの鎮守である稲荷神社は集落の裏手一面の水田地の一画に祀られている。当部落では承応三年(一六五四)から産社祭礼が執行されているが、この年番帳が文化文政期が欠けているもののあとはそっくり年番者の家に保管されており、しかも現在でも昔通りに書き継がれている。この年番帳はよく見かけられるようにはじめは当番者の名や米や銭の集物の記載しかないが、次第にその年の主な事柄などが記されてくる。たとえば風水害のこと、助郷のこと、領主の交代のこと、米の相場のこと、村の行事のこと、村の出来事のことなどが記されており史料的にも貴重な年番帳といえる。
さて稲荷神社は農家の間の細道からその裏に続く耕地のなかにあるが、その参道は農道のような小道である。神域は若干の樹木のほか松の大木が二本ほど残されており、この下に花崗岩の小さな鳥居が建てられている。さほど広くない境内地の片隅に「みぎ大相模ふどうそん・こしがやミち」と道しるべが付された弘化五年(一八四八)の青面金剛文字庚申塔と、嘉永三年(一八五〇)の菅原荘とある小供連による自然石の天神塔が立てられている。
神殿は瓦葺のこじんまりした祠堂で、その裏と横手は一面の葦原になっている。最近までは水田のほか蓮根やくわい畑であったが、県の用地に買収され葦草の茂るままになっている。いずれ交通センターなどの公共施設が設けられる計画になっているようだが、実現のときはこの地域も大きく変るであろう。
道を再び県道蒲生岩槻線に戻り少し進むと新川は右に曲流し県道から離れる。ちょうど新川が曲折した所が越巻行バスの終着所であるが、その傍らの生け垣の中に嘉永四年(一八五一)の両降山碑石それと大雄山碑石とある自然石の石塔が三基祀られている。地元ではこれをどうりゆう様と呼んで大切にしているが、これは大雄山にある「どうりゆう寺」を指したといわれ、今でも災難よけの神様として信仰をあつめている。
ここから道は綾瀬川と接するが、まもなく長島の地となる。長島は古綾瀬川(現御菜川)ずたいの細長い集落で、元禄八年(一六九五)の検地の際西新井村から分村した村である。その村高は一六八石余戸数一四戸(文政年間)という小さな村であったが、現在でも世帯数は三〇世帯(昭和五十四年十月)で大きな変化はない。それだけに今でも昔ながらの農家を中心とした物静かな農村地域であり、しかも集落の裏手は一面さえぎるものがない広々とした水田地である。しかし古綾瀬川の対岸は岩槻市釣上新田の地で、現在区画整理がほどこされ、急ピッチで都市化が進めららており、古綾瀬川をはさんで新と旧の典型的な対象がここにみられる。
ところで古綾瀬川とは筆者の私称で、現在綾瀬川の支流という形で長島地先から綾瀬川に合流する御菜川によって越谷と岩槻の境界線になっているが、この溝川と県道の間が綾瀬川乱流時代の河道跡であるので古綾瀬川と仮称した。この間は元禄年間水田に開発されたが、この水田地と道路の段落というか格差はかなり大きく、今でもそれと見定められる筈である。つまりポプラの並木のある県道はもとの堤防道であったのである。でも最近この水田地の所どころか埋立てられ家などが建てられているので、将来この河道跡もわからなくなってしまうであろう。
自動車の往来がやや多いが、昔ながらの街道のたたずまいを残しているこの堤防道を進むと、右手に朱塗りの祠堂がみえる。長島の鎮守稲荷神社である。おそらくここはもと長島山万蔵寺と称された真言宗の寺院であった筈である。だが今はその跡をたずねる術もない。小さな稲荷の祠堂の前には享保十年(一七二五)の御手洗石が一つ置かれているだけだが、その右手の樹木の茂みのもとに享保三年(一七一八)の笠付青面金剛庚申塔、享保二十年の六十六部供養塔、文化七年(一八一〇)の六地蔵供養塔、元禄九年(一六九六)の地蔵尊像供養塔などがならべられている。これらの石塔は万蔵寺の名残りとみてよいであろう。
なお石塔の後ろの欝蒼とした樹木の茂みは長島の世襲名主内山家の屋敷地で、その長屋門は昔の旧家の面影をそのまま残した構えであるが、この家には江戸時代の村方文書が数多く保存されている。ここから道は御菜川と称される溝川に架せられた石橋にかかるが、これを渡ると岩槻市であり、暫く進むと県道浦和越谷線に合わさる。この道には浦和越谷間のバスが比較的頻繁に運行されている。なお越谷岩槻の境界線は長島稲荷神社の先から右に曲がる御菜川によって区切られているが、この溝に沿って小道が通じており西新井の集落に至る。この溝川には柳その他の灌木や荻などの雑草が生い茂り行く手をはばむこともあるが、雑草をかき分けて進むのも一興であろう。その右手はまだ広々とした西新井の水田地帯である。
このコースの行程は廻り道が多いので、一寸その道程を計る訳にはいかないが、このコースを幾つかに分けそのうえで出羽地区の旧蹟を辿るのも一方法であろう。