蒲生(がもう)村は古くは崎西郡(埼玉郡)越ヶ谷領に属したとみられるが、江戸時代は埼玉郡八条領に属した。村高は『武蔵田園簿』(一六四四)で一七〇三石余、『天保郷帳』(一八四〇)で一八二九石余、戸数二一七戸で越谷地域では増林村に次ぐ大村であった。もと蒲生村と加茂村の二村からなっていたといわれるがつまびらかでない。
元禄十六年(一七〇三)日光街道を結城に向かった水野長福がこの間の紀行を「結城使行」と題した書に残している。このなかで蒲生を通った長福は、当所の名物であるという焼米を路傍で売っているのに興味をおぼえたが、ここは加茂村という村だと聞いた。ところがここは加茂ではなく蒲生だという者もあり、さらに加茂と蒲生は一村の中の地であるという者もいて戸迷っていたようであり〝道ぞ永き 日にやき米を 加茂蒲生〟との狂歌を詠(よ)んでいた。
支配関係では、はじめ幕府領であったが寛永年間蒲生のうち東の地域が松平領、次いで天和の頃堀田領に組み替えとなり、元禄の頃幕府領に復した。以来蒲生は幕末まですべてが幕府領に置かれた。この間大きな土地争いがあったとみられ、宝暦十二年(一七六二)蒲生一村の総検地が実施されている。小名のなかに奉行地という地名があるが、この地名はおそらく検地の際当所に検地奉行が陣屋を構えたことから名付けられたものであろう。このほか小名には下茶屋・上茶屋・道沼・高野・明徳・西浦などの地名がみられる。また蒲生の地名はもと綾瀬川(現古綾瀬川)沿いの地で、蒲などが繁茂していたため名付けられたとみられている。また一説には古い頃戸塚慈輪山領であった美濃国蒲生郡の代地として、当地が慈輪山に与えられたので、以来美濃国の旧領蒲生の地名をとったとも伝える(「越ヶ谷爪の蔓」)。
なお現在の綾瀬川の流路は寛永年間の直道改修を伝えるが、それまでは古綾瀬川筋が綾瀬川の主流筋であった。それを裏ずけるように古綾瀬川が武蔵国埼玉郡と足立郡の境界をなしていたが、今でも古綾瀬と呼ばれる細流が残されており、そこが越谷市と草加市の境になっている(川柳の一部を除く)。
また登戸(のぼりと)も古くは越ヶ谷郷に属したが江戸時代は八条領に属していた。村高は二八九石余戸数四五戸で、どちらかといえば小村であり、田畑の比率は九四対六で蒲生と同じようにほとんどの地が水田地であった。支配関係は江戸時代を通じて幕府領、登戸の地名は川端の船津、または川端の渡しとも解されており、古い頃荒川の乱流路が当地域を流れていたことから名付けられたともみられている。また一説には慈輪山領蒲生と越ヶ谷の境にある村で、江戸に近いつまり江戸に登る方の村として登戸と呼ばれた(「越ヶ谷爪の蔓」)ともいわれるがくわしいことは不明である。
明治二十二年の町村制のとき瓦曾根・登戸・蒲生の三村が合体して蒲生村を構成したが、昭和二十九年越谷町に合体した。その後昭和三十六、七年を契期とした高度工業化政策の影響をもっとも強く受けたのが大字蒲生で、明治八年に二六〇戸であった戸数は現在(昭和五十四年十月)およそ七七〇〇世帯、蒲生地区全体では一万二〇五五戸、三万八九九九人を数え市内ではもっとも人口密度の高い地域になっている。しかも地番も南越谷その他蒲生何丁目などと変更され、昔の水田地はほとんど宅地に化しているため、旧蹟を辿るにはきわめて困難な地域となっているが、神社仏閣を中心に文献などを頼りにしながらこれを追ってみよう。ただしこの項は足の利便を考慮せず、まず蒲生の綾瀬川から日光旧街道を北上する。