草加の松並木から二俣に分かれる道のうち西方の広い道は昭和七年農村賑救事業の一環として千住茶釜橋からはじめられた国道四号線(現県道足立越谷線)改修路の新道である。この事業では町場を避けて新道が造成されたので、越ヶ谷や草加などをはじめ各町場では新道旧道の二道になっているのが普通である。蒲生も日光旧街道筋の立場で道筋に旅人相手の茶屋などが軒をつらねていたため新道が造られたのであるが、この辺りは昭和十二、三年頃の施工になるものである。一方東方の綾瀬川に沿った道が日光旧街道で、昔ながらの家が軒をつらねている。綾瀬川に最近掛け替えられた蒲生大橋を渡ると蒲生の地となる。この橋の右手綾瀬川の対岸に古めいた木小屋風の建物が残されている。
ここが綾瀬川の舟運で一時隆盛をみた藤助河岸跡である。藤助河岸は江戸時代の中期頃に創立された古くからの河岸場である。明治の後期から大正期にかけ、鉄道の普及などで廃止されていく河岸場のなかで、なお繁昌をきわめた綾瀬川舟運では唯一の河岸場であった。それは越ヶ谷町などのほとんどの荷が東武鉄道を利用せず藤助河岸から東京に送られていたからである。ことに同河岸は大正二年四月資本金五万円の株式会社となり、武陽水陸運輸会社と称され陸上運送や倉庫の貸付業務なども取り扱うようになったが、舟運では岩槻町の白木綿・蚊帳(かや)地・胡麻油・蔬菜類、粕壁町の薬種実・醬油・味噌・米・麦・胡麻油、越ヶ谷町の米穀類・藁縄・莚類・味噌などを運送し、年間の出荷高は一万八〇〇〇余駄、着荷は二万駄以上に及んだという(大正五年「越ヶ谷案内」)。
その後大正九年越ヶ谷町に越ヶ谷駅が設置され、越ヶ谷荷の多くが東武鉄道によって運送されるに及び、次第に衰退の一途をたどり、昭和の初期には事実上廃止されたという。現在藤助河岸の経営者であった家は酒屋を営んでいるが、今でも着船時の積荷・下し荷に用いられた木小屋の倉庫が残されており、往時の面影をとどめている。この木小屋もやがて取りこわされるのもそう遠くないことであろう。
藤助河岸跡を後にして旧街道を行くと、右手は出羽堀、左手は人家でそれとはわからないが、綾瀬川が出羽堀に平行して流れている。その間隔はおよそ一五〇メートルほど、街道が川にはさまれた感じの個所である。元禄十六年(一七〇三)の水野長福の紀行文によると、綾瀬川はあやし川とも呼ばれたとあり、これを越すと道は右も左も悠々と流れる川となり格別に趣のある眺めであるが、溝川(出羽堀)の上に家を構えている家があってあぶなく感じられるというようなことを述べていた。なお綾瀬川をあやし川と呼んだのは、低地を乱流する川で、あっちを流れたとみるとこんどはこっちを流れ定まった流路がなかったことからあやしの川と呼んだとの説もある。
ともかく今は綾瀬川の流路は定まっており、出羽堀の上に家は建てられてないが、出羽堀の対岸に木立に囲われた愛宕社という祠が残されている。この辺りはもと下茶屋とも「かぶ一里山」とも称された所であるが、この祠のある丘がおそらく一里塚の跡であろう。『新編武蔵』によると「ここに一里塚あり塚上に杉木を植え傍に愛宕社あり」と記されている。出羽堀に架せられた橋を渡るとその左手に「是ゟ八条へ壱り、流山へ二里」と道しるべが付された安政四年(一八五七)の成田山供養塔、宝暦九年(一七五九)の十三仏礼拝供養塔、同年の不動明王座像塔、享保五年(一七二〇)の念仏講中による六地蔵塔、元禄三年(一六九〇)の光明真言七万五千遍とある真言読誦供養塔などがならべられている。そこから石段を昇ると数株の松や欅の大木に囲われ木の鳥居を前にした瓦葺の愛宕社がある。祠のような小さな社(やしろ)である。一年に一度盛大な祭礼が執行されるそうであるがその月日は不明である。この一里山の裏手は水田地や空地が広がり、このなかに住宅や工場が混在している感じで、蒲生のなかでもまだ住宅開発の進んでない地域といえる。