蒲生久伊豆神社

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 ここから旧街道を少し進むと出羽堀は街道の下を左に曲がりなおも綾瀬川と平行して流れる。この出羽堀に沿った小道があるが、この道を行くと家と家との間に鉄柵に囲まれた石塔が目につく、正徳元年(一七一一)の笠付青面金剛庚申塔と観音の座像を戴いた「これよりぢおんじミち四里」と刻まれた寛保四年(一七四四)の道しるべ塔である。つまりこの道は岩槻の慈恩寺に通じる古道の一つであったのが知れる。

 ここを流れる出羽堀は並木のようにつらなるさまざまな樹木に覆われて続くがまもなく車の往来のはげしい県道足立越谷線の下をくぐる。この出羽堀にしたがって県道を渡り、さらに堀沿いの小道を行くと目の前は広けて綾瀬川の堤防道になる。そこに出羽堀と綾瀬川にはさまれた形で比較的規模の大きな神社がある。応永年間(一三九四~一四二七)の勧請を伝える(『新編武蔵』)蒲生の鎮守久伊豆神社である。参道は住宅の間の露地から入るが、入った所に昭和三十五年建碑になる「精神和道真道」と刻まれた花崗岩の磨石による巨大な碑が建てられている。その横に「村社久伊豆神社」と刻まれた石柱、また笹竹の茂る出羽堀沿いに明和四年(一七六七)再興とある元禄十三年(一七〇〇)の青面金剛庚申塔、その先に敷石をはさんで大きな花崗岩の幟立と鳥居が立てられているが、これは総工費二五万円で建立したとある大華表(鳥居)奉納記念碑があることから昭和三十五年の建立になるものであるのが知れる。それに続き昭和三十三年奉献になる阿迦獅子一対と、終戦十七年(昭和三十七年)を記念した「大東亜戦関係兵士願解消碑神」とあるこれも巨大な見上げるばかりの碑が建てられている。それに次いで昭和二十八年の「植林奉納」の記念碑、明治三十四年の裏面にその順拝履歴が刻まれている神社仏閣巡拝記念碑、その右手に大正七年の伊勢参拝記念碑、明治十九年の御手洗石、榛名神社の石祠、大正八年の「手玉石」などと刻まれた二個の力石などが置かれている。

 拝殿は瓦葺の大きな構えであるが、とくに銅板葺の奥殿は精密な彫刻がほどこされた立派な建造物である。また神殿の横にも「体守護神社」とある祠堂が建てられてあり、その裏に昭和三十五年の花崗岩敷石奉納記念碑などがある。五株ほどの松の大木が枝をひろげている境内地は、ほとんど雑草もみられないほどよく整地されているが、出羽堀側には欅などの樹木がつらなり、堤敷は笹竹に覆われて神域の景観を保っている。また綾瀬川に沿った道と境内地の境には、それぞれ寄進者の名が刻まれた石の柵が見事につらなっているが、これはまだま新しいものである。なお神社手前の綾瀬川べりに江戸時代繁昌していた半七河岸(浅見)と称された河岸場があったが、今はこの河岸跡は全くわからなくなっている。

 さて蒲生の久伊豆神社を後にして先に進むと、東武鉄道の踏切りにさしかかる。この手前の出羽堀に架せられた橋を渡るとそこに小さな神社がみられる。ここも久伊豆神社を称した社である。神社の入口に小さな石の幟立とその横に宝永三年(一七〇六)の青面金剛庚申塔それに、慶応二年(一八六六)の文字庚申塔が立てられている。神殿が設けられている境内地は生け垣に囲まれ一段高くなっている。なかに明治二年の御手洗石と花崗岩の鳥居、それに石の水盤や御神燈が置かれている。神殿は瓦葺コンクリート造りであり石祠のような感じの小さな社である。

蒲生久伊豆神社
蒲生久伊豆神社脇の市道